日米野球を開催しライバルの朝日・毎日を猛追する原動力に

 正力は、朝日、毎日の後塵を拝していた読売新聞の拡販を目指して様々な手を打ったが、1931年、その一環でヤンキースの鉄人ルー・ゲーリッグ、アスレチックスの左腕エース、レフティ・グローブらのMLBオールスターチームを招へい、読売新聞社主催で日米野球を開催した。

「大リーグオールスター来る!」と告知した読売新聞は、迎え撃つ日本チームの選手を「ファン投票」で決めた。投票で選ばれた選手から選考委員会が最終メンバーである27人を選考。早稲田大のエース伊達正男、慶應義塾大のスター内野手水原茂など、当時の野球界のトップスターが選出された。

 これら日本選抜チームや、大学単独チームなどが「大リーグオールスター」と17試合対戦。日本側は1勝もできなかったが、このシリーズはラジオ中継もされ、日本中の関心を集めた。

1931年11月7日、日米野球の第1戦、立教-米国戦の始球式でキャッチャーを務め、田中文相の投球を受けるW・キャメロン・フォーブス駐日米国大使=神宮球場。日本電報通信社撮影(提供:共同通信社)
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 甲子園球場での中等学校野球(現在の高校野球)全国大会を主催する朝日、毎日だけでなく、読売新聞にとっても「野球は新聞拡販の強力な武器になる」と手応えを感じた正力は、「次は球聖ベーブ・ルースを呼ぼう」と画策し、前景気をあおった。

 しかし、その翌年の1932年3月、前回コラムでも紹介した「野球ノ統制並施行ニ関スル件」(野球統制令)が文部省から発令される。

 これは、加熱気味の野球ブームに一定の規制をかけるのが目的だったが、とりわけ「野球をして金品を受け取ること」や「職業野球と学生野球が試合をすること」が固く戒められた。一説には、この文案を策定する委員会に、朝日新聞の関係者がいて、読売新聞が計画している「日米野球」に冷水を浴びせる意図で、このような内容にしたという。