日本ではそれ以前から「日本運動協会」「天勝野球団」「宝塚運動協会」などの職業野球チームが存在したが、従来は、球団だけが存在して、対戦相手は学生や社会人などのアマチュア野球チームだった。

 しかし「野球統制令」によって、職業野球と学生野球の試合は事実上不可能になった。そこで正力松太郎は、アメリカ同様のリーグ戦を行うべきだと考え、1935年には日本初のプロ野球リーグである「日本野球連盟」設立へと動き出す。

戦前は人気もイマイチだったプロ野球

 正力はライバルである新愛知新聞社や国民新聞社、さらには旧西武鉄道(堤康次郎が経営権を握る前の会社)、阪神電鉄、阪急電鉄などに働きかけて1936年、8球団でリーグ戦をスタートさせた。

 当時のプロ野球の親会社は、新聞社か電鉄会社だった。野球が「新聞拡販の武器になる」のは、朝日新聞、毎日新聞の成功事例で証明済みだった。また、沿線に球場を建設すれば、電鉄会社の運賃収入が上がることも、阪神電鉄と阪神甲子園球場の成功例で証明済みだった。

 こういう形で日本のプロ野球はスタートしたが、戦前はあまり知名度がなく、ごく一部の好事家が知っている程度。入場者も少なく、興行収益も上がらなかった。

 またアマチュア球界からの風当たりも強かった。後に南海ホークスの大監督となる鶴岡一人は、法政大学を出て1939年に南海軍に入団したが「大学卒が職業野球に現を抜かすとは何事か」とOB会から除名されそうになった。職業野球は「男芸者」と蔑まれ、ステイタスは低かったのだ。

 太平洋戦争がはじまると、野球は「敵国米国のスポーツ」として弾圧を受け、1944年を最後にリーグ戦を停止する。

 1945年、日本は敗戦。アメリカを中心とした進駐軍の支配下に入る。その中枢である連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、日本人に広く親しまれている「野球」を、日本の再生に役立てようと考えた。

 敗戦の翌年の1946年には、職業野球の再開が認められる。娯楽に飢えていた日本人は、球場に詰め掛けた。