読売新聞は2回目の「日米野球」でも、東京六大学のスター選手やOB選手を中心に選抜チームを組む予定をしていた。しかし「野球統制令」によって、大リーグ選抜と大学生が野球をすることは事実上不可能になった。

野球統制令がきっかけでプロ球団が誕生

 そこで1934年6月、関係者は「職業野球団発起人会」を立ち上げ、学生を中退させるなどして、大リーグ選抜と対戦するためのプロ野球チームをつくることになった。

 11月に始まった日米野球では、急ごしらえの日本は15戦全敗だったが、来日を渋っていたベーブ・ルースがやってきて大活躍をしたことで、前回以上の盛り上がりとなった。

1934年、 読売新聞社主催の日米野球のポスター。ベーブ・ルースのイラスト画に迫力がある(写真:アフロ)
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阪神甲子園球場のベーブ・ルースのプレート、1934年の日米野球でルースは甲子園でプレーした(筆者撮影)
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 そして日米野球の後で、大リーグと対戦した日本選抜チームが母体となって「大日本東京野球倶楽部」が設立された。現在の読売ジャイアンツである。

 皮肉なことに「野球統制令」が出たことで、本格的な日本のプロ野球が誕生することになったのだ。