高校球児を「入札」

 2リーグ分立後も、強豪チームは選手獲得には、強引な手を使った。

 パ・リーグでは元巨人監督の三原脩監督が就任して以来、西鉄ライオンズが強豪チームになると、ライバルの南海ホークスは、各地の有望選手を獲得するために奔走した。球団から全権を委任されていた監督の山本(のち鶴岡姓)一人は、夜、試合が終わるとお目当ての選手に合うために、カバンに札束を大量に詰め込んで夜行列車に乗って移動した。翌朝、選手宅にいきなり訪れて札束を見せて勧誘したのだという。

1957年10月、日本シリーズ第1戦を前に握手する巨人・水原円裕(左)と西鉄・三原脩両監督。この年の日本シリーズは前年に引き続き西鉄が巨人を撃破、三原監督は西鉄の黄金期を築いた(写真:共同通信社)
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 また巨人も好条件を提示して有望選手を獲得した。他球団に入団が決まった選手を翻意させることも多かった。このコラムで紹介したように、立教大学の長嶋茂雄は、チームメイトの杉浦忠ともども、南海への球団を決めていたが、1958年、巨人の猛プッシュで長嶋は翻意して巨人入団を決めたのだった。

 アマチュア球界とのトラブルも多発した。1954年、愛媛県、松山商のエースとして甲子園の優勝投手となった空谷(のち児玉姓)泰には、多くの球団のスカウトが押し寄せた。結局、獲得を希望する球団の「入札」となり、中日ドラゴンズが落札して入団が決まった。

 日本高野連は、これを問題視し、松山商に1年間の対外試合禁止処分を科した。