別所引き抜き事件は、翌年、ようやく決着を見たが、内政を担当するGHQの経済科学局長、マーカット少将はルール、秩序の整備のために、日本プロ野球のコミッショナーの必要性を示唆。

 これを受けて1月、正力松太郎が初代コミッショナーに就任。前述のとおり正力は公職追放中ではあったが、訴追は逃れていたため日本野球連盟側はこれをGHQが承認するだろうと判断していた。しかし正力は民政局と法務府特別審査局の警告によって5月13日に辞職。

 辞職の前に正力は、「既存の6球団を8球団にする、そこで地固めをして更に10球団、それでも安定すれば12球団とし、2リーグへ」という「正力構想」を発表。これが、球界再編の契機となる。

正力松太郎=1957年4月撮影(写真:共同通信社)
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 既存球団からは轟々たる非難が起こった。正力の膝元、読売新聞も5月7日「経営基盤の薄弱なプロ野球への新規参入に反対する」社説を出した。

 しかし「正力構想」以前から動いていた毎日新聞が「1000万円を使って選手を囲い込み始めている」という報が飛び交うに及び、既存球団も選手獲得競争に狂奔した。

毎日オリオンズによるタイガース選手「大量引き抜き事件」

 この時期、プロ野球界は野球賭博が横行、「別所引き抜き」以来、互いに遺恨を持つ関係になった巨人の三原脩監督が、南海の筒井敬三選手を殴打する事件(三原ポカリ事件)も起こるなど、大混乱していた。

 その混乱の極みが、新球団・毎日オリオンズによる「大阪タイガース(のち阪神)主力選手の大量引き抜き事件」だ。

 2リーグ分立に際して大阪は、毎日の呼びかけに応じてパシフィック・リーグに加盟すると約束していたが、「巨人-大阪」の黄金カードがなくなることを懸念して、ぎりぎりのタイミングでセントラル・リーグ加盟を発表した。

 それに怒った毎日は、1949年秋から1950年1月にかけて、大阪の監督兼任選手の若林忠志、中軸打者の別当薫、首位打者も取った呉昌征、スター捕手の土井垣武、内野守備の要の本堂保弥、強打者の大館勲を引き抜いた。その背景には球団と対立していた若林監督が毎日側と通じて選手を勧誘したという事情があったようだが、2リーグ分立を前に、球界は大紛糾した。