静岡県の知徳高校を率いる初鹿文彦監督。父の初鹿勇は、山梨県の塩山商業(現・塩山高校)の監督として、1976年夏の甲子園に初出場を果たしている。まだオムツを着けていた幼い頃から父に連れられグラウンドに行き、ボール拾いを手伝ったり、バッティングの真似事をしたりしていた文彦は、高校生となり、迷うことなく父の下で野球をする道を選択する。(矢崎良一:フリージャーナリスト)
私学の台頭や、商業高校から総合制高校へと改編されたことの影響もあり、塩山の部員数は年々減少していた。それでも文彦の代は熱心なスカウトの甲斐もあり、入部者12人と例年よりいくらか多かった。勇にしてみたら、もちろん息子の存在はモチベーションだが、年齢的にも「最後の勝負」という思いが強かった。
一つ上の学年に3人しか部員がいなかったので、多くの選手が下級生の頃から試合に出場できた。中でも文彦は入学早々、レギュラーとして起用されている。左打ちのロングヒッター。実力的にチーム内では抜きん出ていたので、打順も3番を打ち、1年生にしてチームの中心選手だった。
古豪だけに熱狂的なファンも多い。時折、家に変な電話があった。母が受話器を取ると、「自分の息子を贔屓してるんじゃねえ」と一方的に怒鳴られ、しつこく誹謗中傷された。そのたび母は正座して聞き、「申し訳ございません」とお詫びを繰り返した。文彦が「どうしたの?」と聞いても、「なんでもないよ」と何も説明されることはなかった。
同じように父の下で3年間野球をやっていた7歳上の兄から、「俺の時もこういうことがあった」と聞かされ、初めて事情を理解した。文彦はそれを「自分に力がないから、親にイヤな思いをさせている」と受け止めた。「有無を言わせないような結果を残せば何も言われない」。それが努力の原動力になっていた。文彦は高校通算30本塁打を記録し、山梨を代表するスラッガーに成長する。
こんな逸話がある。長野県に遠征しての練習試合。当時は試合でのパフォーマンスが低下しないように、移動のバスで眠ることが禁止されていた。文彦はついうたた寝してしまい、バスから降りた時に大きなあくびをしてしまった。それを見た勇から、「そんなことで良い野球ができるわけがないだろう」と大目玉を食った。試合が始まっても怒りが収まらず、口も聞いてもらえなかった。
「これはまずい」と慌てた文彦はいつもにもまして集中力を持って打席に立ち、5回までにサイクルヒットを決めてしまった。試合は大量リード。打てなければ「そんなことだから」という説教を用意していた勇は、かえって不機嫌になりニコリともしない。
続く打席で文彦は、この試合2本目のホームランを打つ。ベースを一周してベンチに戻ると、さすがの勇も大笑いし、「ナイスバッティング」と声を掛けてきた。文彦は「ここまでやらなきゃ褒めてもらえないか」と苦笑するしかなかった。