就任3年目で日本航空を甲子園に導いた父親

 教員ではない専業監督だったので、身動きは取りやすかった。ただ、自分が誘って入学した部員たちが1、2年生にもいる。卒業まで面倒を見る責任があった。そこで、30年近く世話になった塩山への御礼奉公のつもりで、その年の1年生が卒業する2年後まで、チームの指揮を執ることにした。

 1996年4月、勇は塩山を離れ、晴れて日本航空の監督に就任した。当時の日本航空は、私学とはいっても、強豪校と呼ぶにはほど遠い、県大会で1、2勝が精一杯のチームだった。

 それでも、本気で野球部を強くしようとしていた。学内に「野球部」というセクションを作り、そこに専属の事務員を置いて、監督やコーチは職員室とは別に専門の部屋を与えられた。学校の年間の教育目標の中に、「全教員を挙げて野球部を甲子園に出場させる」と織り込まれているほどだった。

 スカウティングは勇が全部自分で動いた。塩山の時は近隣の中学校を回れば良かったが、今度は日本中にエリアが広がった。

 ある地方に行った時に、現地の関係者との酒席で、「監督。一曲歌えよ」と言われ、苦手なカラオケを共にすることもあった。同席していた腹心のコーチが「そこまでやらなきゃいけないんですか」と悔しそうに言うと、「いいんだ、いいんだ」と笑っていたという。

 そうやって獲ってきた選手たちで、日本航空は1998年春の選抜に初出場を果たす。勇にとっては、監督として2校目の甲子園。塩山の時と同じように、土台のなかったチームを率いて、しかも今回は就任3年目という驚異的なスピード。卓越した指導力の証と言えるだろう。

 甲子園では初戦で仙台育英(宮城)に勝ち、記念すべき初勝利を挙げた。夏も山梨を制し春夏連続出場。横浜高校が「平成の怪物」松坂大輔を擁して甲子園春夏連覇を果たした年だ。

写真:仙台育英に勝利した当時の日本航空ナイン(写真:共同通信社)
写真:仙台育英に勝利した当時の日本航空ナイン(写真:共同通信社)

 勇の野球は、スタートこそ野手出身ということもあって攻撃力を打ち出していたが、次第に投手作りの名人に変貌していき、投手を中心とした守りからリズムを作る野球が確立されていった。

 それは当時のオーソドックスな公立高校の野球でもある。だから強打者を揃えた日本航空でも、甲子園の初戦の仙台育英戦で、ヒット数は相手の9本を下回るわずか3本ながら4-3と接戦をモノにした。勝負を決めたのはスクイズでの得点だった。

 その投手に適したフォームで力をつけさせ、プロに行った鶴田泰(現・中日球団職員)のようなオーソドックスなオーバースローもいれば、アンダースローの投手がエースの年もあった。ただ、走ったり投げたりという練習の量は徹底的にやらせた。日本航空でも、そのスタイルで甲子園初出場時の松本拓也(元・近鉄)や、左腕の八木智哉(現・中日スカウト)を育て上げた。

2001年夏甲子園出場時の左腕エース八木智哉。のちにプロ入りした(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)2001年夏甲子園出場時の左腕エース八木智哉。のちにプロ入りした(写真:共同通信社)

 一方、文彦は高校を卒業後、父・勇の母校でもある駒大に進学する。