練習試合でバッテリーに細かく指示を与える初鹿文彦監督練習試合でバッテリーに細かく指示を与える初鹿文彦監督

 静岡県の知徳高校を率いる初鹿文彦監督。塩山高校では通算30本塁打のスラッガーとして注目を集め、駒澤大学でも1年生から神宮球場でホームランを打つなど華々しくデビューしながら、4年生の春、代打での三振をきっかけにベンチ入りメンバーから外されてしまう。就職活動もなかなか思うように進まない。年が明けても宙ぶらりんの毎日を送っていた。(矢崎良一:フリージャーナリスト)

 大学の卒業を目前に控えた3月。文彦のもとに、父の勇から電話が入る。勇の率いる日本航空高校は、前年秋の関東大会でベスト8に進出し、この春の選抜甲子園に初出場が決まった。大会前の最終調整のため、暖かい静岡でキャンプを張っていた。

 勇は開口一番、「ちょっと手伝いに来てくれないか」と言ってきた。驚く文彦に、「高校生を見たら、お前も刺激になるぞ」と言葉を続けた。「ありがとうございます。ぜひ行かせてください」と返事をし、すぐに現地に向かった。3月上旬の、10日間ほどの臨時コーチ。文彦はそこで1人の高校生と出会う。

 勇から「アイツのバッティングを見てやってくれ」と託されたのが、1年生(新2年生)では唯一のレギュラーで、打順は6番を打つ深沢俊哉外野手だった。

 深沢は「フミさん、フミさん」と慕ってきて、いろいろ質問を受けた。熱意に絆されるように、グラウンドでバッティング練習を手伝うだけでなく、宿舎に帰ってからも、相手バッテリーとの駆け引きや、打席での立ち位置、リズムやタイミングといった自分が学んできたバッティングのノウハウを熱心に教え込んだ。

 そのまま甲子園でもチームに帯同することになり、次第に文彦は選手たちに野球を教えることに夢中になっていく。これが指導者としての原点となった。

 深沢はチームが甲子園初勝利を挙げた初戦の仙台育英(宮城)戦こそ無安打だったが、2回戦の徳島商戦でレフトスタンドにホームランを打つ。試合は4-8で逆転負け。文彦がチームを離れ東京に帰るその別れ際、深沢がやってきて「フミさん、ありがとうございました。ナイスバッティングでした」と、あたかも文彦がホームランを打ったかのように言い、「これを」と記念のホームランボールを手渡してきた。

「なに言ってるんだ。俺が受け取れるはずがないじゃないか。これはお前が大切に持っていなさい」

 文彦は慌ててボールを深沢に返した。思いもよらない行動に、強い衝撃を受けた。深沢にしてみれば、感謝の思いをそういう形で伝えたかったのだろう。それは不思議な感覚だった。まるで自分がホームランを打ったかのような喜びや感動があった。そのとき、胸の中である感情が芽生えた。

「これだ、と。その子の喜びを、自分の喜びとして感じられたんです。自分は甲子園でホームランなんて打てないし、行くことすらできなかった。そんな自分の果たせなかった夢を、自分が教えた高校生たちが果たしてくれるのか、と」

 父と同じ高校野球の指導者を目指すという夢が生まれた瞬間だった。