後鳥羽上皇

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

後鳥羽上皇が義時追討を掲げて、挙兵

 鎌倉幕府2代執権となった北条義時の最大の危機が、承久3年(1221)6月に勃発した承久の乱です。後鳥羽上皇が、義時追討を掲げて、挙兵したのです。上皇により追討されるという最悪の状況に陥った義時。2人のリーダーはなぜ対決することになったのでしょう。

 私はその遠因は、承久元年(1219)1月の、源実朝(鎌倉幕府3代将軍)暗殺にあると思っています。子供がいなかった実朝は、自らの後継を後鳥羽上皇の皇子から頂こうと思い、交渉が進展していました。

 ところが、実朝暗殺により、上皇はそれまでの態度を翻します。親密であった実朝がいるならば良いが、実朝亡き後の危険な鎌倉に皇子を下向させることはできないとの考えに至ったのでしょう。『愚管抄』(天台宗の僧侶・慈円の史論書)には、皇子下向は、日本国を2つを割ることになると上皇は危ぶんでいたとあります。

 実朝が甥の公暁に暗殺されてから約2ヶ月後の3月、上皇の使者(藤原忠綱)が鎌倉で北条政子や義時と対面します。忠綱は、政子に上皇は実朝の死を大いに悲しんでいることを伝達。続いて、義時と会い「摂津国長江庄と倉橋庄の地頭職を止めるように」との上皇からの命令を伝えるのです。こちらは極めて、政治的な内容です。

 3月12日、この件を巡って、義時・北条時房(義時の弟)、泰時(義時の嫡男)、大江広元らが政子の屋敷で評議。結果、鎌倉幕府は、上皇の要求を拒否することになるのです。その返答は、時房が千騎の軍勢を引き連れ、上洛し、行いました。

 一方の上皇も、前述のように皇子の鎌倉下向を拒絶。摂関家の子弟ならば良いと妥協することになり、九条道家の子・三寅(後の4代将軍・藤原頼経)が鎌倉に下ることになるのです。実朝の死の直後から、朝廷と幕府は既に対立の火種を抱えていたのでした。

 そして、承久3年の上皇の挙兵です。義時追討の院宣には「義時は三寅が幼いのを良いことに、野心を抱き、朝廷の威光を利用して、自らに従わせようと考えた。よって、義時の職務執行を停止し、全てを天皇の御心で決することとする」と、義時追討の理由が述べられています。

 かつて、上皇は日本国が分裂することを危惧していたと記しましたが、その懸念は三寅が鎌倉に下向されてからも、ずっと持たれていたのかもしれません。幼少の三寅を傀儡として、幕府の連中が実権を握り、時と場合によっては、朝廷の命令にも従わない。このような事、上皇には我慢ならなかったのでしょう。そうした状況を覆すには、幕府の実力者・義時を打倒するしかないと上皇はお考えになったのです。