わが国にはさまざまな企業グループがある。中でも、住友、三井、三菱と、第二次世界大戦前にあった旧日本三大財閥の流れをくむ企業は、社名にグループ名を冠しているものが多い。ところが、財閥グループ名を含む社名の中には「おや?」と思うものもある。

 社史研究家の村橋勝子氏が小説顔負けの面白さに満ちた社史を「意外性」の観点から紹介する本連載。第6回は三菱鉛筆を取り上げる。

連載
社史に残る「意外」の発見

現在まで続く有名企業の履歴書にはユニークなものが多数存在する。社史研究家である村橋勝子が多くの社史を読んで発見した、創業者や事業、戦略の意外なルーツを取り上げるシリーズ。

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三菱鉛筆は三菱グループの会社? 

 日本を代表する筆記具のメーカー、三菱鉛筆。「三菱」を冠し、マークも同じだが、三菱グループだなんて、聞いたことがない。なぜ「“三菱”鉛筆」なのか。

 鉛筆は1565年にイギリスで作られたのが最初だが、日本で本格的に鉛筆が使われ始めたのは、明治維新を過ぎてからである。当時はドイツからの輸入品が市場をほぼ独占しており、大変な貴重品だったから、所持・使用できたのは、ごく一部の人であった。そんな中、鉛筆の国産化に挑んだのが眞崎仁六(まさきにろく)だ。

三菱鉛筆・創業者の眞崎仁六

 眞崎は1848年(嘉永元年)に佐賀藩士の子として生まれた。18歳の時、藩命で長崎に遊学、生まれながらの資質に磨きがかかり、明治維新に際会すると、新天地で活躍することを夢見て上京、最初は汽船会社の書記、その後、郷里の先輩・大隈重信の紹介で貿易会社「起立工商会社」に入社した。

 1876年(明治9年)、会社の金属工場の技師長としてアメリカのフィラデルフィアで開かれた万国博覧会に出張、翌年、東京・上野で開かれた第1回内国勧業博覧会をも見て、産業立国に思いをはせた。さらに、1878年、会社の製品を出品するために29歳でパリ万国博覧会に赴いた際、会場に陳列されていた外国製の鉛筆に心を奪われた。眞崎の一生を決定づけた鉛筆との運命的な出会いである。