宇治橋と紫式部像 写真/ogurisu/イメージマート

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

度々、辞職・出家を奏上した道長

 平安時代中期の公卿・藤原道長は、道隆・道兼という兄達の死によって、政界の上席に踊り出ることになります。筆者は、その様を見ていると、時代は違えど、徳川吉宗(1684~1751)を思い出します。

 言わずと知れた徳川幕府8代将軍ですが、彼は紀州藩主・徳川光貞の末男に生まれながらも、長兄(綱教)・三兄(頼職)が相次いで病死したため、紀州藩主に就任。そればかりか、7代将軍・徳川家継が年少で死去し、ついには将軍の座に就くのでした。この辺りのところは、道長と吉宗はよく似ていると感じます。

 兄・道兼の死により、右大臣となった道長ですが、ライバルである藤原伊周(兄・道隆の嫡男。道長の甥)は未だ政界に健在でした。ところが、その伊周とその弟・隆家が「自滅」してしまう事件が起こります。

 長徳2年(996)の「長徳の変」です。同年の年明けのこと。花山法皇の一向と、伊周・隆家兄弟一向が故・藤原為光の邸で遭遇。突如として闘乱が起こり、法皇に随行していた童子2人が殺害されて、その首が持ち去られるという出来事が起こるのです(隆家側が法皇の輿を矢で射たとも言います)。道長が裏で糸を引いて、この事件を起こさせたわけではありませんので、これは伊周側の「自滅」行為というべきでしょう。不敬を働いた伊周方は当然、捜索の対象となります。

 そうした中において、当時、藤原詮子(一条天皇の母。道長の姉)が病となっていたのですが、それは「或る人の呪詛である」と囁かれていました(これは伊周が呪詛していることにされてしまいます)。更には、伊周が道長を太元師法(密教の呪術。臣下は行ってはならないとされた)で呪詛しているとの報告もなされます。

 これらは、本当に伊周側がやったことかは分かりませんので、呪詛の嫌疑に付いては「陰謀論」めいたものを感じます。それはさておき、伊周らは「花山法皇を射たこと」「女院(詮子)を呪詛したこと」「私的に太元師法を行ったこと」の理由により、左遷されるのです。伊周は太宰権帥、隆家は出雲権守となり、都から去るのでした。兄弟は翌年(997)、大赦され帰京しますが、復権には至りません。中関白家(道隆を祖とする一族の呼称)は衰退していくのです。

 ライバルが政界から追放され、道長は左大臣に昇進します。名実共に政界のトップに立ったのです。ところが、長徳4年(998)の春、道長は大病を患います。腰の病だったようですが、この時、道長は「出家」を天皇に願い出ているのです。しかし、天皇は、何れ病は癒えるだろうということで、道長の願いを却下するのでした。