石橋山古戦場 写真/フォトライブラリー

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

頼朝にとって「不運」な戦い

 治承4年(1180)8月17日、源頼朝は挙兵し、平家方の伊豆国目代・平兼隆らを討ち取ります。緒戦は、敵の不意をついた頼朝方の勝利に終わったのです。

 しかし、戦はこれで終わりではありません。関東に蟠踞する平家方の武将はまだまだおり、彼らが大規模な攻勢をかけてくることは歴然としていました。頼朝はそれにどのように対応しようとしたのでしょうか。そう、味方となった豪族(例えば相模国の三浦一族)と合流しようとしたのです。

 三浦一族は、頼朝軍と合流するため、居城・衣笠城(神奈川県横須賀市)を立ちますが、豪雨による増水のため、行く手を阻まれていました。三浦一族がなかなかやって来ないということで、頼朝は三浦一族と合流するため、伊豆から東進するのです。軍勢は300余騎。一方、頼朝軍を撃破しようと待ち構える平家方の中心となる武将は、大庭景親。相模国や武蔵国の平家方武士3千騎を率いていました。

 更には、頼朝とも因縁のある伊豆国伊東の豪族・伊東祐親の軍勢300騎も頼朝軍の背後に迫っていたのです。こうして、石橋山(現在の神奈川県小田原市)の戦い(8月23日)が勃発するのです。平家方の大庭軍は、頼朝と三浦軍が合流する前に、頼朝軍を撃破しようと、攻撃を仕掛けてきます。

 大軍の襲来に、頼朝軍も奮戦しますが(頼朝自身も弓矢でもって敵兵を倒す)、衆寡敵せず、敗退。敗走を余儀なくされます。椙山(神奈川県湯河原町)というところに逃れた頼朝は、そこから更に真鶴岬に行き、安房国(千葉県南部)を目指して、渡海することになるのです。

 石橋山の戦いの敗北は、これまで「幸運」続きだった頼朝にとっては「不幸」というべきでしょう。戦いに敗れた理由の1つは、前述したように、やはり、頼朝軍が敵軍より小勢だったことがあるでしょう。三浦の軍勢が、頼朝軍に合流していたら、簡単には敗北しなかったと思います(最終的には敗れていた可能性はありますが)。が、三浦軍が合流できなかったのは、雨による増水とのことで、こればかりは、どうしようもないと言えるでしょう。石橋山合戦においては、時の運が頼朝方になかったということでしょうか。