歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
景勝と和睦、景勝・景虎の和平を仲介した勝頼
長篠の戦い(天正3年=1575年5月)で、織田信長・徳川家康連合軍に敗れた武田勝頼ですが、すぐに衰退し、滅亡してしまったわけではありません。武田家の滅亡は、天正10年(1582)3月のことです。長篠の戦いから、7年の歳月が流れていました。よって、武田家滅亡の真因は、長篠合戦の敗北とは別にあったと言えましょう。武田家はなぜ滅亡してしまったのでしょうか。
長篠合戦直後から、家康は反転攻勢をかけ、駿府にまで侵入し放火、遠江国の武田方の諸城(犬居城・光明城・勝坂城など)を次々に攻略していきます。続いて、家康は小山城(静岡県吉田町)を攻囲しますが、9月上旬、勝頼が1万3千の軍勢を率いて後詰(後方に控え、必要に応じ味方を応援をする)に駆けつけたため、家康は小山城や高天神城(掛川市)を攻略すること叶わず、引き上げていきました。
勝頼も、小山城を普請し、高天神城に兵糧を入れ、引き上げます。が、徳川軍に5月から攻囲された二俣城(静岡県浜松市)の救援は叶わず、同城は同年12月に徳川の手に落ちました。徳川のみならず、織田も武田に攻勢をかけてきました。
同年6月には、東美濃の岩村城(武田重臣・秋山虎繁が籠城)を攻囲。11月になり、勝頼は後詰に向かいますが、雪により身動きができず。とうとう、岩村城は11月下旬、開城します。軍事的に苦戦する勝頼ですが、同年11月頃には、越後の上杉謙信と同盟を結ぶことに成功します。
元来、この同盟は、室町幕府15代将軍・足利義昭が勧めていたことではあるのですが、当初、両者はこれに応じようとはしませんでした。それが、長篠合戦直後に一転、ついに同盟が成立したのです。
信長と謙信も同盟を結んでいましたが、武田・上杉の同盟によって、勝頼は織田・上杉の双方から攻撃される心配はなくなりました。信長は岩村城攻撃に呼応して、謙信に北信濃に出兵するよう要請していました。織田軍もまた謙信とともに信濃に流れ込み、武田方に痛撃を与えようとしたのです。だが、謙信は信長との約束を破り、越中に出陣してしまいます。
謙信は武田と同盟を結ぶ決意を固めていたから、信濃に出兵しなかったのです。同盟の成果が早くも現れたと言えましょう(当然、信長と謙信の関係は冷え込むことになります)。明けて天正4年(1576)9月には勝頼は中国地方の大名・毛利輝元と同盟を締結。更には、小田原の北条氏政との同盟強化にも成功します(氏政の妹・桂林院殿が勝頼に正室として嫁ぐことが決まる)。勝頼にとって、これら同盟は、信長に対抗するために必要なものだったでしょう(信長包囲網の形成)。
天正6年(1578)3月、越後の上杉謙信は病死しますが、家督をめぐって、謙信の甥・上杉景勝と、養子の上杉景虎(北条氏政の弟)との間で争いが起こります(御館の乱)。勝頼は両者の和睦の仲介をしています(勝頼は北条氏から景虎支援を要請されていました)。上杉景勝と和睦し、景勝・景虎の和平を仲介した勝頼。和平は破綻することになりますが、勝頼は撤兵し、景虎を支援することはありませんでした(天正7年=1579年、景虎滅亡)。