歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
信虎あってこその信玄
甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名・武田信玄は、上杉謙信と川中島で激戦を繰り広げたということもあり、織田信長や徳川家康などとともに、有名武将の1人です。その生涯は、父の武田信虎を追放し家督を継承したり、実子・武田義信を幽閉するといった波乱に富んだものでした。信玄の生涯はこれまで時代劇や小説で何度も描かれてきましたので、概要はある程度は知っているという方も多いかもしれません。
では、信玄の父・信虎の人生は如何でしょうか? 信虎というと、信玄の影に隠れて余り目立たない、もしくは「暴君」というイメージを持っている人もいるでしょう。しかし、信虎の生涯は単に「暴君」という言葉だけで表現できるものではありませんし、ある意味、信玄と同じような波乱な生涯を歩んでいるのです。信虎あってこその信玄。私は信虎と信玄の歩みを見ていて、そう感じます。
信虎は、明応3年(1494)、甲斐国の守護・武田信縄(のぶつな)の長男として生を受けます。前述のように、信虎と信玄、信玄と義信は対立することになるのですが、実はこの信縄(信玄の祖父)も自らの父・信昌と相剋関係にあったのです。
信昌と信縄の父子対立は、信昌が信恵(信縄の弟)の方に家督を譲渡しようとしたことから勃発、信縄によるクーデターに発展したと思われていました。が、近年では対立の契機は、堀越(伊豆国堀越)公方・足利政知の死(1491年)後に起こった混乱(政知により廃嫡の憂き目にあっていた子の足利茶々丸の反乱)への対応(茶々丸を支援するのか否か)をめぐるものと言われています。
信昌は反茶々丸、信縄は茶々丸派となったことにより、父子は対立。信昌が家督を信恵に継がせようとしたことから、信縄が反発。甲斐国の国人のみならず、外部勢力(関東管領・上杉氏、駿河国の今川氏、信濃諏訪の諏訪氏)までが、この父子対立(見方によっては、信縄・信恵の兄弟対立とも言える)に介入してくるのでした。
争いは明応7年(1498)に一旦収まり(和睦が結ばれる)、信昌は隠居します。が、隠居したといっても、信昌は未だ影響力を有しており、信縄が単独でしっかりした政権運営を行うことは困難でした。
永正2年(1505)9月、信昌は59歳で死去したことにより、信縄が甲斐守護として、権力を振える機会が巡ってきますが、信縄を病魔が襲います。そして、永正4年(1507)2月にこの世を去ってしまうのです(享年37か)。
信縄の妻・岩下の方(信虎の母)も前年(1506年)に死去していました。信虎はこの時、10代前半と年少でした。信虎は家督を継承しますが、年少の主君に対し、信恵(信縄の弟)らが挙兵(1508年)。甲斐国で再び内乱が起こります。