大阪城公園 写真/フォトライブラリー

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

「予は醜い顔をしており、五体も貧弱」

 貧しい家庭に生まれ、時には物乞いのようなことをしながらも、忍耐力と忠実さでもって、逞しく生き抜いてきた若き日の豊臣秀吉。秀吉というと、歴史小説やドラマなどにおいては、主君・織田信長から「猿」とよく呼ばれているように、容姿は余り優れていないとのイメージがあります。大河ドラマにおいても、秀吉役は(時に二枚目俳優が演じることもありますが)、三枚目俳優が演じているように思います。

 近年、「ルッキズム」(外見重視主義)という言葉がよく使用されるようになりましたが、自らの容姿のことを自分で余り良いと感じていない人も、報道などを見ていて、特に若い人に多いように見受けられます。周囲から見て(全然、容姿悪くないのに)と思っても、本人からしたら(自分は、容姿は良くない)と思い込んでしまう例もあるでしょう。では「猿」と呼ばれることが多い秀吉はどうだったのでしょうか?

 宣教師ルイス・フロイスの『日本史』には、秀吉が自分の容姿について語る場面が記されています。それによると、秀吉は「皆が見るとおり、予(秀吉)は醜い顔をしており、五体も貧弱」と話したとあります。つまり、秀吉は自分の容姿が良くないと思っていたということです。

 戦国三英傑(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)や他の戦国武将の中で、自らの容姿について語り、しかも「自分の容姿は良くない」と断言する人は、秀吉くらいではないでしょうか。それだけ、秀吉は自分の容姿に自信はなかったのでしょう。他の武将は、守護大名家の出身であったり、地方の豪族の出身であったりという場合が多いですが、秀吉は武士の家でもなく、貧家の出。そのことと、容姿のことも相俟って、コンプレックス(劣等感)に苛まれることもあったかもしれません。

 秀吉の容姿について記している書物はそれなりにありますが、そのどれもが「彼(秀吉)は身長が低く、また醜悪な容貌の持主」「眼がとび出ており、シナ人のように髭が少なかった」(フロイス『日本史』)、「容貌が醜く、身体も短小で、様子が猿のようであった」(朝鮮の人・姜沆の著作『看羊録』)というような書きぶりです。

 信長というと秀吉のことを「猿」と呼んでいる印象が強いですが、信長は秀吉の妻・寧宛ての書状で「はげねずみ」と秀吉のことを記しています。もちろん、信長が秀吉のことを常日頃から「はげねずみ」と呼んでいたかどうかまでは分かりません。

 上司が部下に対して「はげねずみ」などと言ったら、現代ならば「パワハラ」で訴えられてしまうかもしれませんが、信長は前掲の書状で、蔑視の意味で「はげねずみ」と記しているようには思えません。「お前様ほどの細君(寧)は、あのはげねずみには二度と求めることはできまい」というように、親しみの意味がこもっているように感じます。