歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
家康は「生まれつき、気の逸る殿」
戦国三英傑の1人・徳川家康は「狸親父」として有名ですが、若い頃から、なかなかの策略家であり「狸青年」ではなかったかということは、『三河物語』を基にして、前回、見てきました。
江戸時代初期の旗本で『三河物語』(以下、同書と記すことあり)の著者として知られる大久保彦左衛門忠教は、家康最後の戦というべき、大坂夏の陣(1615年)に槍奉行として、従軍しています。大坂の陣における天王寺・岡山合戦においては、敵の豊臣方の軍勢が、家康の本陣近くにまで迫り、大混乱となります。
同書に、家康の側には、小栗久次のほかは誰もおらず、逃げたのであろうか、それとも前進して戦っているのであろうかと記されるような状態でした。旗奉行の人々も、旗の辺りには1人もいないような状況だったようです。戦後、旗奉行の体たらくを聞いて、家康は不機嫌でした。
ある時、家康の御前に、彦左衛門と小栗政信とが出ていたのですが、家康は急に彦左衛門に「お前は旗に付いていたか」と尋ねます。彦左衛門は槍奉行でしたので「槍に付いておりました」と答えると、家康は「お前は旗に付いていたのだろう」と何やら誤解している様子。「いや、御槍に付いておりました」と彦左衛門が重ねて言上すると「お前は旗じゃ」と厳しい口調となった家康。
気の弱い者なら、ここでビビってしまうかもしれませんが、そこは硬骨漢の彦左衛門。「絶対、御槍に付いておりました」と筋を曲げません。さすがの家康もそれ以上押し通すことをせず「では、旗には誰が付いておったのか」と軌道修正。他の者が「庄田が旗に付いておりました」と申し上げます。すると、家康は「庄田、庄田、庄田」と3度も口にしたと言います。庄田の下の名前が出てこなかったようです(暫くして、小栗政信が庄田三太夫と言上)。
家康この時、74歳、亡くなる前年でした。物忘れとともに、怒りっぽくなっているようにも見えますが、彦左衛門曰く、家康は「生まれつき、気の逸る殿」(せっかち、短気)とありますので、生来のものかもしれません。家康と言えば「なかぬなら鳴なくまで待まてよ 時鳥(ほととぎす)」(チャンスがめぐってくるまで辛抱強く待つ)との句で有名であり、「なかぬなら殺してしまえ時鳥」の織田信長と比べて、のんびり、穏やかなイメージが強いかもしれませんが『三河物語』などを見ていくと、そうしたイメージも変わってきます。
『徳川実紀』(江戸時代後期に編纂された徳川幕府の歴史書)にも、天正10年(1582)の本能寺の変(信長が家臣の明智光秀に討たれる)の際、家康は「早く京に戻って、腹を切って、右府(信長)と死を共にせん」「逃げるにしても、その途中には、山賊もおろう。そのような者に討たれるよりは、都で腹を切る」と、ある意味、感情論を口にして、家臣の本多忠勝に諌められています。