歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
民衆に敬服された親氏の子、泰親
大河ドラマ「どうする家康」の主人公・徳川家康。その家康の先祖である松平親氏は、慈悲深く、家臣のみならず、民にも愛されてきたことは前回述べました。『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)によると、その親氏の子は松平泰親(法名は用金)。同書によると、この泰親も、父と同じく、武芸に優れ、慈悲の心を持っていたようです。
泰親が三河国中の侍や民衆に敬服されたのは、彼のそうした振る舞いが影響したのでしょうが、どうやら、もう1つ理由があったようです。
都のある貴族(大臣)が罪を得て、三河国に流罪となっていました。『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)によると、その貴族の名は、洞院中納言実煕とあります(『実紀』は、実熙は左遷ではなく、応仁の乱後の混乱を避けるため、荘園があった三河に身を寄せたと書いています)。実熙は都に帰ることになったのですが「名のある侍に都まで供をして欲しい」ということになります。
そこで、白羽の矢が立ったのが、泰親でした。松平家は源氏の流れを汲む家柄。「これに優る家柄はない」として、実熙から直々の仰せがあったようです。
実熙のお供として、都に上り、無事に役目を果たした泰親。それ以後は、三河国への綸旨(天皇の秘書的役割を果たした蔵人が天皇の意を奉じて出す文書)は、泰親に宛てて下されたとのこと。そのようなことで、三河の侍や民百姓は、泰親の仰せ(命令)がないものは、受け取らなくなったということです。
武勇・慈悲に加えて、朝廷から発給された綸旨により、権威を更に身に付けるに至ったということでしょう。もちろん、『三河物語』のこの逸話が、本当か否かは分かりません。「伝説」の可能性が高いですが、リーダー論の観点から見れば、泰親が権威を身に付けたということは重要です。