歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
名君として知られる祖父・松平清康
徳川家康の曽祖父・松平信忠は、情が薄く、強権的なところもあり、家臣や領民にそっぽを向かれ、隠居したことは前回見てきました。その信忠の後継となったのが、松平清康。家康の祖父です。清康は松平家の歴史のなかでも、とりわけ名君として知られています。
江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門が書いた『三河物語』には、清康の評価が載っていますが「戦をしてもこの上をゆく人はいなかった」「優しい人で、身分に関係なく、誰に対しても慈悲を持って接した」と大絶賛。自分(清康)が使っていたお椀で「皆で酒を飲め」と家臣に勧め、彼らが(主君のお椀で酒が飲めようか)と恐縮していると、清康は「皆、なぜ飲まぬ。侍に上下の差はない。飲め」と言ったとされます(前掲書)。
上から目線で偉そうに接するのではなく、同じ目線で家臣と接したのです。清康の対応を「誰一人として不足に思う者はなく」と同書にありますので、清康は、家臣が不公平と感じる態度を取らなかったのでしょう。部下によって、態度や接し方が違う上司がいますが、そうなると、部下の間に不公平感が生まれ、不満が生じてしまう。
もちろん、できる部下とできない部下の性質を見抜き、彼らをより高みに導くために、(良い意味で)あえて対応を変えて接するのは良いのでしょうが、上司の単なる好き嫌いで対応を変えるのは良くないということですね。30歳まで生きていたら、天下を容易く取れただろうと評された清康ですが、25歳の若さでこの世を去ります。
病死ではなく、家臣に斬り殺されるという哀れな最期でした。天文4年(1535)、尾張国森山(名古屋市守山区)を攻めた際、陣中において、家臣・阿部弥七郎に惨殺されるのです。馬が逃げ出し人々が騒いでいることを、弥七郎が(これは父・定吉を清康様が殺そうと図っているのでは)と誤解。弥七郎は、刀を抜き、無警戒の清康を殺したのでした。
しかし弥七郎も、その場ですぐに討ち取られます。あれだけ家臣に温かく接した清康が、家臣により殺される。このような不条理はないでしょう。
清康の後を継いだのは、子の松平広忠(家康の父)ですが、少年時代に諸国を流浪して、苦労したこともあり、他人の辛さや心配事をよく理解し、家臣にも情を持って接したとのこと(『三河物語』)。しかし、そんな広忠も、23歳の若さで亡くなってしまうのです(家臣による暗殺説もあるが、病死であろう)。そして、その広忠の次代が、いよいよ家康であります。