歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

「太閤」豊臣秀吉

 豊臣秀吉——貧しい身の上から、一代で天下人まで昇りつめた男。彼の出世譚は、現代に至るまで、多くの人々を魅了してきたと言って良いでしょう。秀吉は太閤(関白に任じられた者の子息が関白になったとき、父である前関白を呼ぶ称号。秀吉は甥であり養子の秀次に関白を譲った)となりますが、そのこともあり、立身出世して最高権力者となった人物のことを「今太閤」と現代でも称します。

 学歴も人脈も財産も、何もないところから総理の職にまで到達した田中角栄元首相も、かつて「今太閤」と持て囃されました。つまり、秀吉というと、出世の象徴的存在なのです。では、なぜ秀吉はとんでもない出世をすることができたのでしょうか?

 そのことを考える前に、先ずは、彼の誕生と出自について触れておきましょう。秀吉の誕生年については、諸説あるものの、現在では天文6年(1537)説が有力視されています。天文5年(1536)の元日に生まれたと、かつては言われてきましたが、これはフィクションであり、実際は前述のように天文6年の2月6日の生まれのようです。

 そして、秀吉の父は「弥右衞門」です。よく「木下弥右衛門」と書かれることもありますが、弥右衛門が木下姓を称していたことはありません。木下という名字を名乗ったのは、秀吉だからです。秀吉は、浅野長勝の養女・寧(おね)と結婚しますが、その時に、木下藤吉郎秀吉と名乗ったのでした(1561年)。

 寧の母が木下家の出であったので、その名字を頂いたのです。そうした事を考えると、秀吉の出自が「上流階層」や武士でないことが分かります。おそらく、貧しい百姓だったのではないでしょうか(一方で、秀吉の出自を非農業民とする見解もあります)。秀吉の母は「なか」(後の大政所)と言われますが、彼女の出自についても詳しいことは不明です(尾張国の御器所村に生まれたという)。とにかく、秀吉が尾張国の貧しい家庭に生まれたのは確かなようです。

 しかも、少年期の秀吉に悲劇が襲います。秀吉自身が「秀吉若輩之時、孤と成て」(『言経卿記』)と後に述べているように、若い頃に秀吉は父を亡くしたのです。父を亡くした秀吉は、一体、どのようにして生計を立てていたのでしょうか。

 中国地方の大名・毛利氏の外交僧として有名な安国寺恵瓊は、秀吉について「若い頃は小者であり、乞食もしていたような人物であるが」(『毛利家文書』)と評しています。もちろんこれは伝聞ではあるのですが、当時(書状が書かれたのは、1584年)、そのような噂が広まっていたことは事実です。また、この話は、信憑性が高いのではとの見解もあります。