上月城址方面の展望 写真=フォトライブラリー

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

出自や身分に関係なく重用した信長

 豊臣秀吉は、一説によると天文23年(1554)、18歳の時に織田信長に仕えたと言われています。信長にどのようにして仕えるようになったかということも諸説あります。叔父の勧めにより、信長に仕えることを決めたという説。幼馴染で、既に信長に仕えていた一若に会い、その縁故で叶ったという説などがあります。如何に秀吉が才知ある人物だったとしても、この頃の信長が後に「天下布武」を掲げて、次々と諸国を平定していこうなどとは想像もできなかったでしょう。

 しかし、その想像もできないことが「現実」となったのですから、世の中、何が起こるか分かりません。秀吉は、信長に仕えたことで人生が大きく変わったと言えるでしょう。これがもし武田信玄や上杉謙信、または今川義元・北条氏康などに仕えていたならば、秀吉は天下人となることは、おそらくなかったと思います。

 信長の家臣・太田牛一が記した『信長公記』に初めて秀吉が登場するのは、永禄11年(1568)9月のことです。信長は既に美濃国を手中に収め、この時、足利義昭を奉じて、上洛をしようとしていました。信長上洛戦において、秀吉は、近江国守護の六角氏の諸城(観音寺城や箕作城)を、他の織田部将(佐久間信盛や丹羽長秀)と共に攻撃したのです。そして、それらの城は瞬く間に陥落します。

 注目すべきは、この時、秀吉が佐久間氏や丹羽氏といった重臣とともに攻撃に参加していることです。上洛後、秀吉は明智光秀や丹羽長秀らと京都奉行として、政務に励んでいました(1569年)。信長に仕官して僅か10数年で、織田家の有力部将に秀吉はなっていたのです。秀吉の出自を考えたら、もの凄く早い出世でしょう。

 出世の要因の1つは、信長が秀吉の出自や身分に関係なく、重用したということにあると考えられます。学者によっては、秀吉の情報収集能力の高さが異常な出世の秘密と捉える人もいます。が、情報収集能力は他の織田部将であってもある程度あったと思うのです。それより何より、秀吉の若い頃からの特性である忍耐強さと、創意工夫の能力、仕事の速さがあったからこそ、信長に認められて、重臣の列に加えられたのではないでしょうか。

 天正元年(1573)、中国地方の大名・毛利氏の使僧である安国寺恵瓊は、その書状の中で、信長と秀吉のことを「信長の代五年・三年は持たるべく候、明年辺りは公家などに成らるべく候かと見及び申し候、左候て後、高転びにあをのけに転ばれ候ずると見え申し候、藤吉郎さりとてはの者にて候」(信長の世は5年か3年は持つでしょう。明年には公家などになられるかもしれません。しかし、何れ、高転びして、仰向けに倒れるように見えます。藤吉郎(秀吉)はなかなかのものだ)と評しています。

安国寺恵瓊と

 本能寺の変(1582年)で信長が倒れる10年ばかり前の恵瓊の「予言」です。秀吉はこの頃には、毛利氏に仕える者からも、その能力を高く評価されていたのでした。