織田信長像

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

大将としてのカリスマ性

 戦国武将・織田信長の意外な「温和」な一面を前回は見てきましたが、もちろん、単にお人好しで温厚なだけでは、戦国乱世を勝ち抜いていくことはできません。信長にはやはり、多くの家臣団を従えていくだけのカリスマ性というものがあったのです。そしてそのカリスマ性は、若い頃からあったと考えられます。

 時は弘治2年(1556)と言いますから、信長が22歳の時のこと。弟・織田信勝(信行)方と信長は戦をすることになるのですが(稲生合戦)、信長方は圧倒的に不利でした。信勝方の武将・柴田勝家は千人、林美作守は7百人の軍兵を率いて、信長軍に襲いかかろうとしていました。

 対する信長軍は、7百人にも満たない小勢という有様。有名な桶狭間の戦い(1560年)の時も、敵の今川義元の大軍(軍勢数は諸説あるが、約2万5千ほどか)に対し、信長軍は約2千ばかりとかなりの兵力差があったのですが、稲生合戦(名古屋市)の際もそうだったのです。

 しかし、桶狭間と同じく、この戦いも信長は勝利するのです。その要因の1つには、信長の大将としてのカリスマ性があったと私は考えているのですが、戦の経緯を見ていきましょう。

 最初、戦は信長方が負けていました。柴田勝家軍に、信長方は攻めかかるのですが、山田治部左衛門・佐々孫介ほか精強な者が討たれて、その軍勢は信長のもとにワラワラと逃げ帰ってくるような状態だったのです。信長の周囲には、槍持ちなど40人がいる程度。そのようなところを敵軍に急襲されたら、ひとたまりもありません。まさに絶体絶命のピンチ。信長はピンチをどのように切り抜けたのか?

『信長公記』には、この時、信長は、敵軍に向かい、大音声をあげて怒ったとあります。信長が何を言ったかまでは書かれていないのですが、とにかく信長は「大音声を上げ、御怒り」になったのです。すると敵の軍勢は「御威光」に恐れ立ち止まり、ついには逃げ去ったというのです。漫画やアニメでこうした場面が描かれたならば「そんなご都合主義的展開ある?」と感じてしまいますが、信長が本気で怒ったならば、そのくらいのことは起きてもおかしくないと思ってしまうから不思議です。まさに鬼神の如き、威光だったのでしょう。

 逃げ去る敵軍を信長の軍勢は追撃。信長自らは、南方にいる林美作守の軍勢に攻めかかります。林美作守と信長方の黒田半平は、何時間も斬り合うという死闘を繰り広げていたのですが、半平は左手を打ち落とされ、危うい状況となっていました。そこに信長が現れ、林美作守に斬りかかり、ついにその首をとったのでした。

稲生合戦戦没者供養塔(名古屋市) 写真/フォトライブラリー

 こうして、柴田・林の両軍は敗北。信長軍の勝利となったのです。怒髪天をつく迫力で敵軍を敗走させ、最後には総大将自らが敵将を討つ。率先して戦場を駆け廻る若き総大将に、味方の軍兵は鼓舞されたに違いありません。