甲府駅前の武田信玄像

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

信虎が領民から不人気だった理由

 武田信玄の父・信虎は「平生悪逆無道」(普段から悪逆であった)とか「余りに悪行を成され候」(余りにも悪行をされた)という同時代史料(『塩山向嶽禅菴小年代記』や『勝山記』)の記述から暴君として捉えられがちです。

 しかし、悪逆の具体的内容については記されていません。信虎が家督を継承してから、子の信玄に追放されるまで、領国の甲斐国では、大雨・台風・旱魃といった異常気象や飢饉が相次いでいました。異常気象に加え、戦(内戦や外敵の侵入を迎え撃つ)を何度も繰り広げられています。

 米などの物価も高騰。甲斐の人々は、天災や戦の影響を受け、苦しい生活を余儀なくされていました。そうした現状に対する不満が、信虎に向けられたと推測されます。江戸時代初期に編纂された軍書『甲陽軍鑑』(以下、『軍艦』と略記)には、信虎が家臣を手討ちにしたとの記述があるが、前述のように同時代史料には悪行の具体例は記されず。よって『軍艦』の記述には疑いの目が向けられています(信虎の追放を正当化するための記述とも考えられます)。

 信虎の「悪逆」というのは、家臣などを手討ちにしたというのではなく、天災や飢饉・戦争が蔓延る状況を収めることができない、そういったところが、徳なき主君ー「悪逆無道」として認識され、非難されたのではないでしょうか。

 信虎は甲斐国の統一を成し遂げたばかりでなく、躑躅ヶ崎館を建設し、甲府城下に国衆を住まわせるという画期的なことも行っています(館の周辺に、複数の城砦を築いたりもしています)。そうした難事業をやり遂げたにもかかわらず、信虎が領民から不人気だったのは(重税を課したこともあるかもしれませんが)、天災等の信虎にはどうしようもないことも理由だったのです。

 信虎は天文10年(1541)6月、嫡男の信玄により甲斐を追われますが、この年にも「百年に一度」あるかないかの大飢饉が発生しています。領民や武田家臣らの信虎に対する不満は頂点に達したものと思われます。このままでは、甲斐国が立ち行かなくなる。そうした危機感を信玄は抱いていたのではないでしょうか。甲斐を危機から救うには、父を追放するしかないとの考えに至ったと思われます。

 同年6月14日、信虎は駿河国に向かいます。駿河の大名・今川義元には、信虎の娘が正室として嫁いでいましたので、その関係で、義元に会うため、駿河に赴いたと推測されます。信玄の信虎に対する「反乱」はこれを機に実行されるのです。

 信玄は同月17日に躑躅ヶ崎館に入館。足軽を遣わし、すぐに国境を封鎖させます。信虎の帰国を阻止するためです。信玄の「反乱」は、当然、信玄一個人の思惑により行われたものではなく、武田重臣の同意を得ていました。この重臣の同意があったからこそ、若き信玄(本来ならば晴信と記すべきでしょうが、信玄で通します)は、信虎へのクーデターを成し遂げることができたのです。