歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
我慢の勝頼
元亀4年(1573)4月、病死した父・信玄の後継となった武田勝頼。前年に三方ヶ原合戦で大敗していた徳川家康にも、信玄死すの噂は伝わり、家康は同年5月に、駿河や遠江・三河国の武田方に攻撃を加えています。その結果、遠江国高天神城・天方城・飯田城などを下した徳川軍。ところが、武田方は攻勢をかけてきませんでした。この事により、家康は信玄の死を確信したと言われています。
元亀4年は7月に天正と改元されますが、その年の8月には、奥三河の有力国衆・奥平氏(定能・信昌親子)に家康は調略を仕掛け、奥平氏は武田から徳川に寝返ってしまいます。織田信長も武田軍が三河から撤退した後に、宿敵の北近江の浅井・越前の朝倉氏を滅ぼしています。織田・徳川の反撃が早速開始され、勝頼は押されていたのです。
信長は信玄が死んだとの噂を聞いて「その跡は続かないだろう」との想いを持っていたようです。現代において「初代が創り、2代目で傾き、3代目が潰す」との言葉があるように、会社創業者の時には経営は順調でも、次代になると段々、経営が傾いてくることもあります。
新社長になった途端、社員の大量退職ということもあるようです。2代目になって倒産する企業の特色は「見栄と体裁にこだわってしまうということ」(具体的には、社長が交代する際には社屋の建て替えを行ったり、新規事業の立ち上げを行うといった外観を派手にして交代するケースなど)だそうです(「2代目社長が会社を引き継ぐと大企業でも倒産してしまう?」(『リスクの眼鏡』)。
織田・徳川から攻勢をかけられていた勝頼でしたが、天正元年にはジッと我慢しているように見えます。派手な行動をしていないのです。これは、家督を継承したばかりということもあり、家臣団の取りまとめや、内政に力を割いていたものと思われます。とは言え、勝頼はいつまでも敵勢に押されていた訳ではありません。天正2(1574)に入ると、織田・徳川方に攻勢をかけるのです。
その年の1月、勝頼は織田の領国である東美濃に攻め入ります。岩村(岐阜県恵那市)にまで進出し、織田方の明知城を包囲したのです(1月27日)。同月中旬には、越前国で一揆が起き、織田諸将が鎮圧のため、派遣されるという事件が起きています。
その対応に忙しい中を、信長は勝頼に攻め込まれたのでした。痛いところを突かれたと言うべきでしょう。2月1日、武田方への対応として、信長は尾張・美濃の軍勢を派遣。そして、同月5日には、自身も息子の信忠と共に出陣するのです。明後日には、敵陣に攻め入る予定だったようですが、道中は険しい山中であり、簡単に進軍することはできず。そうこうしているうちに、明知城内で謀反が起こり、城は陥落してしまうのです。こうなると、もうどうしようもないということで、信長は明知城周辺の城の普請を行い、岐阜に帰ることになります(2月24日)。