歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
なぜ四男である勝頼が家督を継いだのか
甲斐国の戦国大名・武田信玄は、元亀4年(1573)4月に、病死します。53歳でした。三方ヶ原の戦いにおいて、徳川家康を破ったのが、昨年12月22日。その後、三河国に侵攻し、野田城(新城市)を攻略(2月中旬)するなどしましたが、その頃には既に、信玄の病状はかなり悪化していたようです。これ以上の行軍には耐えきれないということで、武田軍は甲府に向けて引き上げていくことになります。
しかし、信玄は甲府の光景を生きてその目で見ることは叶いませんでした。途上の信州駒場(長野県阿智村)で息絶えてしまったからです。信玄亡き後、その後継となったのは、4男の武田勝頼でした。信玄には長男も次男も3男もいたのですが、なぜ4男の勝頼が後継となったのでしょうか?
先ず、信玄長男は、武田義信。彼は、天文7年(1538)に生まれました。母は、左大臣・三条公頼の次女(三条の方)です。本来ならば、信玄亡き後は、義信が後継となるはずでした。ところが、義信は正室が今川氏真(義元の子)の妹ということもあり、武田家における親今川派の中心人物となります。
一方、父の信玄は、織田信長と接近し、信長の養女(遠山直廉の娘)と勝頼との婚儀をまとめることもありました(1565年11月)。武田と織田の同盟に意を唱えたのが、義信でした(義信は武田と今川の同盟堅持派)。義信は、武田重臣(飯富虎昌など)を味方に引き込んで、信玄に謀反しようとしたと言われています。が、謀反の動きは信玄の知るところとなるのです。飯富虎昌や長坂源五郎などは成敗されました(10月15日)。
当初、信玄は義信を廃嫡することは考えていなかったようです。家臣に充てた書状(10月23日)に「飯富虎昌が自分(信玄)と義信の間を裂こうとした密謀が発覚したので切腹させた。父子の間には問題はない」とあることが、その1つの証拠となるでしょう。義信が事件後、自らの考えを改めて反省したならば、歴史は変わったかもしれませんが、義信は翻意しなかったようです。ついに、義信は廃嫡され、甲府の東光寺に幽閉されてしまいます。
そして、永禄10年(1567)10月19日、同寺で死去します(自害と病死の2説あり)。長男の義信が死去したので、普通ならば次男が家督を継ぐことになるでしょうが、信玄の次男・竜宝(1541年生。母は三条の方)は盲目であり、出家していました。3男の信之は、天文12年(1543)に生れるも、年少の頃に亡くなっています。
こうして、信玄の4男・勝頼が後継となったのです。勝頼が生まれたのは、天文15年(1546)。母は、信濃の諏訪頼重の娘(諏訪御料人)です。ちなみに、頼重は信玄により、切腹に追い込まれています。勝頼は、最初、諏訪総領家を継いでいましたので、武田家を継ぐ者とは見做されていませんでした。
しかし、前述のように、義信が死去したこともあり、武田の家督を継ぐことになったのです。信玄は死に際して、遺言を残したとされます(『甲陽軍鑑』)。「3年間は自らの死を秘せ」という有名なものです。勝頼は信玄の遺言を守り、信玄の死後も、信玄の名で書状を出しています。ところが、その努力も虚しく、信玄死去の噂はすぐに広まってしまうのです。