歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
勝頼はなぜ決戦を挑んだのか?
武田信玄の後継となった武田勝頼は、織田信長とその同盟者・徳川家康に攻勢をかけ、脅威を与えます。信長や家康にしても、どこかの機会で、武田軍に大打撃を与えなければ、最悪の場合、自らがやられてしまうと感じていたでしょう。その機会は、天正3年(1575)5月にやって来ます。同月上旬、勝頼は徳川方の長篠城(城主・奥平信昌)を攻囲し、追い詰めていました。
家康は信長に救援を依頼、信長はそれを受け、岐阜を出立(5月13日)。5月13日には、三河国の設楽郷に布陣します。信長軍は3万の大軍だったとされますが、同地の窪地に軍勢を配置。これは、武田軍に大軍を見えなくする意味があったとされます(信長や家康方の陣には、敵軍の侵入を防ぐため、馬防柵が敷設)。長篠城を攻囲している武田軍も、当然、織田・徳川連合軍の接近を知ることになります。
開催された軍議。武田重臣(山県昌景・馬場信春・原昌胤・小山田信茂ほか)は「敵は大軍。撤退するのが宜しいかと」と進言。ところが、当主・勝頼と側近・長坂光堅が撤退策に反対、決戦論を唱えます。重臣の中には、ならばと、長期戦に持ち込むことを提案した者もいましたが、議論の末、勝頼の主戦論が通るのです。
5月21日、連合軍の別働隊は、武田方の鳶ノ巣山砦を奇襲、守備していた武田方の兵は敗走。別働隊は長篠城を包囲していた武田軍も追い払います(前日、勝頼軍約1万は有海原に進出していました)。鳶ノ巣山に武田軍が集中していたら、織田・徳川連合軍も攻めるのは困難だったでしょう。
しかし、前述のように、勝頼は連合軍と決戦するため、進出。そして、5月21日、いよいよ、長篠合戦となるのです。織田・徳川連合軍は、数千挺の鉄砲を用意していました。何度も何度も打ち掛かってくる武田軍は、大量の鉄砲によって撃破されるのです。「織田方は、1人も前に出ず、鉄砲を打ち、足軽であしらう」(『信長公記』)という状態でした。午後2時頃まで戦いは続いたとされますが、結果は武田軍の大敗でした。山県昌景・内藤昌秀という武田重臣も戦死します。
勝頼は、退却を余儀なくされ、三河から武田の勢力は駆逐されることになるのです。開戦前、勝頼が重臣の撤退論もしくは持久戦論を採用していたら、ここまでの大敗を喫することはなかったでしょう。それにしても、勝頼はなぜ決戦を挑んだのでしょうか。