産業再生機構への支援要請が決まった2004年当時のダイエー店舗(千葉県浦安氏、写真:共同通信社)

 ダイエーを日本一の小売業に育て上げただけでなく、流通業の社会的地位向上に大きく貢献した中内功(正式表記:力→刀)氏。プロ野球球団を買収するなど、事業領域も大きく拡大した。しかし1990年代以降、坂道を転げ落ちるように転落していく。なぜ中内流経営は通用しなくなってしまったのか。

本稿は「Japan Innovation Review」が過去に掲載した人気記事の再配信です。(初出:2023年11月10日)※内容は掲載当時のもの

中内氏の一貫した経営哲学「売り上げはすべてを癒やす」

「よいものをどんどん安く」のスローガンのもと、日本に価格破壊を起こし、価格決定権をメーカーから奪い消費者に渡した、ダイエー創業者・中内功氏(1922─2005)には、もうひとつ、氏を代表する言葉がある。

 それが、「売り上げはすべてを癒やす」。この言葉こそ、ダイエーを一代にして日本一小売業に成長させ、一代で滅ぼした最大の原因だ。

 今はどんな企業も営業利益率やEBITDA(営業利益+減価償却費)、あるいはキャッシュフローを重視するが、1990年代にバブル経済が崩壊するまでは、売り上げの最大化を経営の最重要テーマとして位置付けていた企業は珍しくなかった。とにかく売り上げを伸ばす。そうすれば利益は後からついてくる、という考え方だ。

 その代表が中内氏だった。時には利益を度外視して安く売る。それで客が増えればトータルの売り上げは増えていく。販売数量が増えればメーカーとの価格交渉力も強まるため、他店より安く仕入れて売ることができ、さらに客が増えて売り上げが増える。この好循環を、中内氏は1957年に第一号店をオープンして以来成立させ、15年後の1972年には三越を抜いて小売業日本一の座を手に入れた。

 そして、日本一になってからもなお、売り上げを追い、規模を求め続けた。同時に事業領域は祖業のスーパーマーケットから始まりどんどん拡大していった。

 1981年には高島屋株を取得。業務提携を持ち掛け、千葉県津田沼駅前のビルには、高島屋とダイエーがツインテナントで入ったこともある。中内氏の頭の中には、百貨店事業にもチェーンストア理論を持ち込むことで、さらに発展できるという思いと、いずれは百貨店業にも進出したいという野心があった。

 この提携は高島屋側にダイエーへの拒絶感が強かったこともあり、うまくいかなかった。それでも中内氏は百貨店にこだわり続ける。高島屋株と同時並行的に仏百貨店のプランタンと提携、1984年に東京・銀座にプランタン銀座をオープンした。