歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
流罪地でも敵だらけでなかった幸運
永暦元年(1160)3月、13歳の源頼朝は、死刑を免れて、流刑地・伊豆国に配流となります。伊豆に流された頼朝は、当初は同国の豪族・工藤氏、続けて伊東氏(祐親)の監視を受けたと考えられています。私は、頼朝は幸運に恵まれた人物だったと前稿で述べましたが、それは流罪地においても変わりませんでした。
先ず、頼朝を支援してくれる人々がいました。その代表的存在と言えるのが、頼朝の乳母・比企尼でした。尼は、夫(比企掃部允)が代官となっていた武蔵国比企郡(埼玉県)に都から赴き、そこから、頼朝に仕送りをしたのです。それも1年や2年ではなく、20年にも亘って(『吾妻鏡』)。
比企尼と夫との間には、3人の娘がいましたが、彼女たちは、安達氏・河越氏・伊東氏という関東各地の有力武士のもとに嫁ぎます。その中でも、比企尼の長女と結ばれた武蔵国の安達盛長は、流人・頼朝の側近くに仕え、支えていくことになるのです。このように、流罪の地で、周りが敵だらけでなかったことが幸運の1つ。そして、幸運の2つ目は、流人生活が比較的自由であったことでしょう。
伊豆国伊東の豪族・伊東祐親の3女と、頼朝は恋愛関係となり、ついには男子までもうけたとの逸話(『曽我物語』)もあります(生まれた男子は、平家を恐れた祐親により殺害)。祐親の魔の手は、頼朝にも向き、生命が危うくなりますが、祐親の次男・祐清が事前に襲撃を知らせてくれたので、頼朝は危地を脱することができました(1175年。ちなみに、祐清は比企尼の3女と結婚しています)。
伊東を逃れた頼朝を保護したのが、伊豆国北条の豪族・北条時政です。時政の娘の1人が北条政子であり、政子が頼朝の正室となったことは言うまでもありません。北条が親族となったことも、頼朝にとっては心強いことであるし、幸運なことだったと思います。
頼朝の周りには、父・源義朝の家人だった者たちも参集してきます。佐々木秀義の一族などがそうです。頼朝の乳母も比企尼だけではなく、複数おり、そのなかの乳母の甥で、下級公家の三善康信は、都の情勢を月に3度も頼朝に知らせていました。