五大堂 同聚院 写真=ogurisu/イメージマート

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

連載
歴史の偉人に学ぶ リーダーシップの極意

不確実な時代だからこそ「故きを温ね新しきを知る」ことがより大切になります。本シリーズでは、歴史上の偉人たちが成し遂げた業績と、その背景にあるリーダーシップや組織づくりなどの背景やストーリーを学ぶことで、ビジネスパーソンとしての知性と教養を磨きます。

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道隆・道兼の相次ぐ死

 正暦元年(990)5月、藤原道長の父・兼家となり出家、7月に62歳の生涯を閉じます。兼家が出家した際に、関白と氏長者を譲られたのは、嫡男で内大臣の藤原道隆(道長の実兄)でした。

 道隆は娘の定子を入内させていました。定子は、まだ年少の一条天皇の女御となっていたのです(のち中宮)。定子が一条天皇の子を何れ産めば、道隆の権勢は更に高まります。道長はこの定子の中宮大夫となるのです。この人事は、兄・道隆の計らいによるとされますが、道長はそれに反発。「面白くない」と道長は定子のもとには寄り付かなかったとの逸話が『栄花物語』(平安時代の歴史物語)に記されています。ここから、道長の「反骨」心が読み取れるかもしれません。

 一方、道隆は関白そして摂政に就任、内大臣を辞職。後任の内大臣には実弟の藤原道兼が就任。数年後には、道兼が内大臣から右大臣となるのですが、空席となった内大臣には、道隆の嫡子でまだ20代前半の藤原伊周がなるのでした。

 異様なスピードの昇進は、親(道隆)の七光りとも評されます。伊周の昇進は、叔父・道長を上回っていました。このまま、中関白家(関白・藤原道隆を祖とする一族の呼称)の全盛時代が続くかと思われました。だが、それは突然、終焉を迎えるのです。

 時は長徳元年(995)。その年には都で疫病が流行し、民衆のみならず、貴族にも被害者が出ていました。そうした中、道隆は重病となるのです。糖尿病であったと言われています。そしてとうとうその年の4月に亡くなってしまうのです。43歳の働き盛りでした。

 道隆の嫡男・伊周は関白となることを望んだようですが、それは叶いませんでした。後継関白には、道隆の実弟・道兼がなるのです。ところがこの道兼も関白となって早々、疫病に罹り、病没してしまいます(995年5月)。関白在位期間の短さから、道兼は「七日関白」とも呼ばれています。道隆・道兼という権力者の相次ぐ死は、無常を思わせます。

『大鏡』(平安時代後期成立の歴史物語)には、この2人の権力者の最期の姿が描かれていますが、それによると道隆は大酒飲みだったようです。亡くなる時にも念仏を勧める人々を尻目に「飲み友達は極楽にいるであろうか」と心配していたとのこと。同書によると、道隆の容貌は端麗であり、それは病を得ても変わらなかったようで、人々を感心させています。

 一方、道兼は体調不良となっても、それを押して参内。ところが参内中に我慢できない程、体調が悪化。人に介助されつつ、退出することになります。自邸で病臥する道兼を見た者曰く、道兼には死相が出ていたそうです。元々は血色の良い道兼でしたが、その面影はなかったのでした。

 道兼の死により、その実弟・道長が右大臣となります(995年6月)。その年の5月には、道長に「内覧の宣旨」(内覧を許す旨を申し付ける宣旨。 摂政・関白以外でこれを受けた人は、摂関に準じる取扱いを受けた。内覧とは、摂政・関白などが天皇に奏上する文書を内々に見て、天皇の政務を代行すること)が下りますが、それには裏事情があったとされます。