歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
道隆・道兼の相次ぐ死
正暦元年(990)5月、藤原道長の父・兼家となり出家、7月に62歳の生涯を閉じます。兼家が出家した際に、関白と氏長者を譲られたのは、嫡男で内大臣の藤原道隆(道長の実兄)でした。
道隆は娘の定子を入内させていました。定子は、まだ年少の一条天皇の女御となっていたのです(のち中宮)。定子が一条天皇の子を何れ産めば、道隆の権勢は更に高まります。道長はこの定子の中宮大夫となるのです。この人事は、兄・道隆の計らいによるとされますが、道長はそれに反発。「面白くない」と道長は定子のもとには寄り付かなかったとの逸話が『栄花物語』(平安時代の歴史物語)に記されています。ここから、道長の「反骨」心が読み取れるかもしれません。
一方、道隆は関白そして摂政に就任、内大臣を辞職。後任の内大臣には実弟の藤原道兼が就任。数年後には、道兼が内大臣から右大臣となるのですが、空席となった内大臣には、道隆の嫡子でまだ20代前半の藤原伊周がなるのでした。
異様なスピードの昇進は、親(道隆)の七光りとも評されます。伊周の昇進は、叔父・道長を上回っていました。このまま、中関白家(関白・藤原道隆を祖とする一族の呼称)の全盛時代が続くかと思われました。だが、それは突然、終焉を迎えるのです。
時は長徳元年(995)。その年には都で疫病が流行し、民衆のみならず、貴族にも被害者が出ていました。そうした中、道隆は重病となるのです。糖尿病であったと言われています。そしてとうとうその年の4月に亡くなってしまうのです。43歳の働き盛りでした。
道隆の嫡男・伊周は関白となることを望んだようですが、それは叶いませんでした。後継関白には、道隆の実弟・道兼がなるのです。ところがこの道兼も関白となって早々、疫病に罹り、病没してしまいます(995年5月)。関白在位期間の短さから、道兼は「七日関白」とも呼ばれています。道隆・道兼という権力者の相次ぐ死は、無常を思わせます。
『大鏡』(平安時代後期成立の歴史物語)には、この2人の権力者の最期の姿が描かれていますが、それによると道隆は大酒飲みだったようです。亡くなる時にも念仏を勧める人々を尻目に「飲み友達は極楽にいるであろうか」と心配していたとのこと。同書によると、道隆の容貌は端麗であり、それは病を得ても変わらなかったようで、人々を感心させています。
一方、道兼は体調不良となっても、それを押して参内。ところが参内中に我慢できない程、体調が悪化。人に介助されつつ、退出することになります。自邸で病臥する道兼を見た者曰く、道兼には死相が出ていたそうです。元々は血色の良い道兼でしたが、その面影はなかったのでした。
道兼の死により、その実弟・道長が右大臣となります(995年6月)。その年の5月には、道長に「内覧の宣旨」(内覧を許す旨を申し付ける宣旨。 摂政・関白以外でこれを受けた人は、摂関に準じる取扱いを受けた。内覧とは、摂政・関白などが天皇に奏上する文書を内々に見て、天皇の政務を代行すること)が下りますが、それには裏事情があったとされます。