修善寺 写真/tamu1500/イメージマート

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

蹴鞠にハマった頼家

 2代目鎌倉殿の源頼家は、有力御家人・安達景盛の愛妾を強奪し、母・北条政子に嗜められるという失態を犯します(1199年8月20日)。不義と好色を母に非難されたわけですが、その後、頼家が他の御家人の妾を奪ったという話は聞きませんので、頼家もさすがに反省したのでしょうか。次に、頼家がのめり込んだのが、蹴鞠でした。

 『吾妻鏡』(鎌倉時代後期の歴史書)には、頼家が幕府御所などで「百日の蹴鞠」を始めたというような文章が度々見られるようになります。蹴鞠にハマった頼家は、蹴鞠に達者な者を鎌倉に下向させるよう、後鳥羽上皇に乞うほどでした。蹴鞠に没頭したなどというと、現代人からみれば「何を遊んでいるんだ」と感じるでしょうが、当時、蹴鞠は単なる遊戯ではなく、時に重要な政治ツールとなる芸能でした。

 よって、頼家に蹴鞠関連記事が多数見られるからといって、2代目のバカ社長とレッテル張りをしてしまうのは、慎重でなければいけません。が「政務を投げ打ち」連日、御所で蹴鞠をすることもあったといいますから(『吾妻鏡』1201年9月20日)、そこまでいけば、度を越していると批判されても仕方ありませんが。

 もちろん、この記述も、北条氏の関係者が編纂に関与した『吾妻鏡』の一文ですので、信憑性に疑問が持たれているのも確かです(北条氏を美化し、源氏将軍・頼家を貶める文章構造)。『吾妻鏡』によると、この頼家の行いを、覚めた目で見ていたのが、北条泰時(後の鎌倉幕府3代執権)でした。

 泰時は、頼家の側近・中野能成に、それとなく「蹴鞠に夢中になるのは分かるが、去る8月の台風で、鶴岡八幡宮の宮門が倒れ、国中が飢饉となっている時に、蹴鞠の達者を都から呼び寄せられた。かつて、頼朝様は浜遊びに行こうとされた時、天文学者が天変を予想すると、それを取りやめて、謹慎なされた。それに比べて、今はどうでしょう。貴方は側近く仕える身なので、お諫めされては如何」と伝えるのです。中野は、泰時の言葉に頷きますが、明確な返事はしませんでした(9月22日)。

 10月に入って暫くすると、泰時に、頼家が怒っているとの情報が入ってきます。「父(泰時の父・北条義時)や祖父(泰時の祖父・北条時政)を差し置いて、私を非難するなど、けしからん」と激怒しているというのです。頼家、この時、19歳。泰時は18歳でした。