部員わずか9人だった三島高校野球部

 岩佐自身も社会科の教鞭を執っていたのだが、少子化の時代に入り、私学として生き残れるのか危機感があった。学校の立地が良く、三島だけでなく、伊豆、御殿場と広いエリアから通学することが可能だった。県立志向が強い土地柄だが、そうした地域の県立高校と上手くマッチングできない中学生の受け皿として、毎年一定数の生徒は確保できていた。

 ただ、学校に特色がなかった。ソフトテニスやレスリングなど運動部の活動に力を入れていたが、影響力の強い野球部を強くしたいという願望がかねてからあった。

 野球部はかつてはプロ野球選手を出すような強豪だった時期もあるが、長いこと低迷していた。トントン拍子に話は進む。日本航空を退任したのは2002年の年明け1月8日。そして三島高校への赴任が決まったのが3月8日。その間、わずか2カ月。縁とはこういうものなのだろう。

 赴任した時の部員は9人。試合ができるギリギリの部員数だったが、文彦が指導を始めると「厳しい野球はやりたくない」と退部する部員がいた。キャプテンは髪の毛を伸ばしオールバックにしていた。でも、野球はそれほど上手くはない。

 試合の日、2年生の部員が1人、グラウンドに現れなかった。選手を乗せたワゴン車で自宅まで迎えに行ったが、「ついていけないっす。そんなに真剣に野球をやるつもりじゃないし」と家から出て来ようとしなかった。「お前がいないと、みんな大会に出られないんだ。頼むよ」と何度も頭を下げた。

 文彦からしたら、まだ野球を始める前の段階だった。ゆくゆくは日本航空の時のようなレベルの高い野球をやりたいが、その前にまず、学校内や日常生活における行動常識のようなものから教えていく必要があった。だから野球では目を瞑れても、躾や礼儀には厳しかった。

 勇はもう60歳を過ぎていて、隠居を決め込むつもりでいた。「息子がやっているから」と遊びがてらグラウンドに来た時に、そんな光景を目にして、「このままではまずいぞ」と心配をし始めた。

 ちょうど同じ時期、思わぬ事件が起こる。日本航空に入学する予定だった中学生が、初鹿親子が退任したことで進路を変更し、別の私学に入学することになった。すでに入学試験は終わって無事合格。物品の購入も済み、野球部寮に入寮していた。

 ところが、その子たちが「文彦コーチが静岡で監督になった」と聞きつけ、入学予定だった高校の寮を集団で脱走。勇の自宅にやってきて「三島に行きたい」と直談判してきたのだ。