監督の座を父親に譲った文彦

 こういうことが起きてはいけないと思い、三島への異動は彼らには伏せていたのだが、保護者を通じて耳に入ってしまったようだ。説得したが聞き入れず、勇は彼らが入学を予定していた学校に謝罪に出向いた。

 もともとはこちらからお願いした話で、平身低頭詫びるしかなかった。先方の校長が折れ、「そんな気持ちで残っても良い学校生活は送れないだろう」と譲歩してくれたことで、三島への入学がかなった。彼らの他にも7人の新入部員が入り、選手20人、マネージャー2名の総勢22人でスタートを切る。

 その年の秋季大会の御殿場南高校戦で初勝利を挙げると、文彦は監督を退き、年明けから山梨にいた勇を静岡に呼び寄せ監督を任せた。自身は部長としてチームの土台作りをしたかったのと、父親にもう一度監督として働く場所を作りたかった。選手の指導や試合での采配は、まだまだ自分は及ばないと認めていた。

 勇はそれから10年間監督を務め、75歳になった2013年春、第一線を退き総監督に就任した。代わって、38歳になった文彦があらためて監督に就任する。校名が「三島」から「知徳高校」に改称されたのは、翌14年のことだった。

「監督(勇)は、やりきったと思います。ただ、もう一度一緒に甲子園に行くという夢があったので、それを果たせずに終わるのは悔しかった」と文彦は言う。

 勇は文彦の監督就任を前に、彼なりのやり方で地ならしをしてくれていた。

 部内で些細なイジメや問題行動といったことが相次いで起こり、風紀に乱れが出て来ていた。高野連から処分を受けた案件もあり、当然、学校からの見方も厳しくなってくる。勇は自分の責任のもと、問題行動の多い部員たちを退部させた。

 ハレーションはあったが、批判はすべて自分が受け止めた。そして戦力ダウンしたチームで、中学時代には不登校だったといういわく付きの部員を手塩に掛けてエース投手に育て上げ、「これで大丈夫だ。勝てるぞ」という状態で文彦に引き継いだ。

 就任して最初の夏の静岡大会、知徳は過去最高成績のベスト8に進出している。それでも文彦は「僕がもう少し上手くやれていたら、もっと勝てるチームでした」と振り返る。