「父と一緒に甲子園」の夢が実現した瞬間

 それまで、指導者になろうと思ったことは一度もなかった。「プロ野球選手になれないのなら、もう野球から離れて普通のサラリーマンになろう。休日に休める仕事がしたい。スーツを着て、野球とはまったく離れた生活を送るんだ」。そんな人生設計が、一人の高校生との出会い、わずか15日間ほどの経験で大きく変わった。

 勇の下でコーチの見習いをしながら、教員免許を取得するため2年間、科目等履修生として大学に通った。すでに野球部の合宿所を出ていたが、駒大の太田監督のはからいで、最初の1年は明治神宮外苑のテニスクラブの宿直として、住み込みで働きながら授業に通わせてもらった。2年目に日本航空の選手寮の寮監として採用され、教員免許を取得すると、正式にコーチに就任する。

 そして、98年の春夏連続初出場のチームを見て入学してきた選手たちが3年生になった2001年夏、エース八木智哉(現・中日スカウト)を擁して甲子園に出場。文彦にとっては、高校時代に果たせなかった「父と一緒に甲子園」の夢が実現した瞬間だった。

初鹿文彦と父の勇初鹿文彦と父の勇

 初戦で鳴門工(徳島)、2回戦で宜野座(沖縄)に快勝。3回戦で優勝した日大三(西東京)に敗れたが、この大会で2勝を挙げて注目を集めた。山梨県内では公式戦無敗。主力には下級生も多くいて、翌年も期待できるチームだった。黄金時代が到来しそうな予感があった。

 ところがその年の暮れ、チームの運営方針を巡って学校との間に亀裂が走る。溝は埋まらず、勇とともに職を解かれ、学校を離れることになった。勇の就任から5年間で甲子園に春夏計3度の出場と結果は出していた。不本意な退任ではあったが、勇も文彦も、当時の厚遇には今も感謝している。

 今年の夏に7度目の甲子園出場を果たした日本航空。現監督の豊泉啓介は勇の教え子で、この退任時の1年生。今も知徳とは年に何度かオープン戦が組まれ、初鹿親子との友好な関係が続いている。

 富士市にある曹洞宗・福泉寺の住職で、岩佐善公という人物がいた。駒大OBで、文彦の大学時代からの相談相手だった。

 日本航空を退職した後、報告の電話を入れ、「せっかくやり始めた仕事なので、これから公立高校の教員免許を取って、母校を甲子園に連れて行きたいんです」と伝えると、「公立高校の先生になるのがどれくらい難しいのか、わかってるのか」と考えの甘さを指摘され、返す言葉を失った。

「それでもやりたいのか」と問われ「やりたいです」と答えると、「ちょっと待ってろ」と電話を切られた。

 数時間後に折り返しの電話が来て、「静岡に行く気はあるか?」と聞かれる。二つ返事で「高校野球の指導者ができるのなら、日本中どこにでも行きます」と答えると、紹介されたのが、静岡県の駿東郡長泉町にある三島高校。現在の知徳高校だった。