(歴史ライター:西股 総生)
投票に行かないと損をする?
来る10月27日は衆議院選挙だが、世の中には投票に行かない、つまり棄権する人が少なくない。
「自分が1票入れたからといって何も変わらない」「投票する意味が見出せない」
「支持できる候補者がいない」
「面倒くさい」
あたりが、主な理由だろう。
令和3年(2021)10月に行われた前回衆院選の投票率は55.93%、同4年(2022)7月の参院選は52.05%で、近年の国政選挙だと投票率は押しなべて50%台、地方選挙では30%台も珍しくない。国政選挙でも半数近く、地方選挙では3分の2ほどの有権者が棄権しているわけである。では、投票には本当に意味はないのだろうか。
はっきりいうが、投票に行ったからといって世の中がよくなるわけではない。なぜなら、世の中には相矛盾する様々な利害が存在しているからだ。たとえば現在、多くの国民は円安がもたらす物価高にあえいでいるが、一方に円安のおかげで業績好調な会社だってある。国民全員の利害が一致する政策なんて、そもそも原理的にありえないのである。
ただし、投票に行かないと世の中は確実に悪くなるし、あなたも損をする。なぜか。以下、歴史的な観点から考えてみよう。
7月19~30日掲載の拙稿「歴史から考える「権力が倒れる時」」や、9月25~28日掲載「歴史から考える「権力と税金」」で考察したように、われわれが納めている税金は、元をたどれば江戸時代や戦国時代の年貢である。さらに遡れば、荘園公領制下の「所当官物(しょとうかんもつ)」や、律令制下の「租・庸・調」に行き着く。
日本に最初に国家が成立して以来、これらを取り立てる徴税システムは、ひとときも途切れることなく、折に触れてマイナーチェンジやバージョンアップを繰り返しなが、延々と存続して権力の源泉となってきた。ただし、現在われわれが納めている税金と、かつての年貢や租庸調との間には、大きな違いがある。
大河ドラマ『光る君へ』で描かれている、平安貴族の優雅な暮らしぶりを支えているのは、年貢や所当官物だ。いや、藤原道長や紫式部だけでなく、源頼朝や織田信長や徳川家康だって同じ。要するに、年貢や所当官物や租庸調とは支配階級を養うための資金源にほかならなかったのである。
一方、現在の税金は、政治家や公務員を養いもするが、全体としては国税なら国民、地方税なら住民全体の公益のために用いられる……ことになっている。税金で養われる政治家や公務員も公僕、つまり国民・住民全体のための奉仕者、と位置付けられている。
つまり、国民・住民が納めた税金は国民・住民全体のために使え、というのが「主権在民」の基本原理なのである。けれども現実には、「裏金議員」やら「いただき知事」やらが、いっぱいいる。タテマエをわかっていながら、税金を自分を肥やすためのエサ代としてチョロまかす「偉い人」がいるわけだ。税金の中に刻まれていた年貢のDNAみたいなものが、顔を出している形である。
このように、税金が年貢へと先祖返りする最大の理由が、投票率の低さである。なぜなら、棄権とは税金の使い道を政治家や役人に白紙委任する行為だからだ。税金を使う側が、自分たちの好きに使ってよいとなったら、「裏金議員」や「いただき知事」が出てくるのは当然ではないか。
その上で財源が足りなくなったら、何かの公共サービスを打ち切るなり、増税なりすればよい。マイナンバーカードなんて、増税のツールとして便利この上もない。「支持できる候補者がいない」「面倒くさい」という理由で投票に行かない有権者は、「裏金議員」や「いただき知事」たちからしたら気前のよい太客みたいな存在なのである。
投票に行っても世の中はよくならないが、行かなければ確実に悪くなる、といった意味がおわかりだろうか。税金は高くなるが公益には一向に還元されないというのは、納税者であり有権者であるあなたにとって、損ではないですか? どの候補者が当選するか、どの政党が勝つか負けるか、という以前の問題なのである。