「監督がグラウンドに立たないなら、自分も辞めます」

 日本航空が初出場した1998年春の選抜は、土屋にとっては生まれて初めて足を踏み入れた甲子園球場だった。ところが1回戦の仙台育英戦は、球場にも行けず、宿舎で過ごしている。

 開幕日を前に、日本航空の宿舎で食中毒騒動が起こった。新聞発表では、症状があったのは部員3人と教員1人。その「教員1人」が土屋だった。ホテル内にある病院で点滴を打ち静養した。

 初鹿親子が日本航空を退任した際には、「監督がグラウンドに立たないなら、自分も辞めます」と、ともに学校を去った。退職後は「(勇が)またどこかで必ず監督をやるから、それまで俺は待つ」と妻に頭を下げ、定職に就かずアルバイトで生計を立てていた。

 しばらくして、三島高校に寮監として採用される。日本航空の時は同じ山梨県内だったが、今度は静岡に行くことになる。それも、「実は僕のカミさんが静岡の出身で。だから全然、抵抗なかったです」と笑って振り返る。

 文彦が高校生の時には「フミ」と呼んでいたが、指導者として戻ってきてからはケジメとして、「フミさん」と呼ぶようになった。根は昭和の頑固オヤジ。部員のスマホ所持には最後まで反対した。「いまだに反対です」ときっぱり。「だけど、そこは監督が一番やりやすい方法でやるのがベストですから」と笑った。

 泰聖は「誰よりも厳しく練習させられました。あの土屋部長の練習に耐えられたら、少々キツいのはへっちゃらです」と振り返る。最後の夏の大会の後、3年生の投手陣が全員集まり、土屋部長とブルペンで記念撮影をした。その写真を今も机に置いている。

 そんな話を聞くと、土屋は少し嬉しそうに、「僕はレギュラーの子たちには何も手を掛けません。僕なんかに教えられるレベルじゃないです。ただ、ちょっと落ちこぼれかけたような子は、やっぱり気になって声を掛けたり、自主練を手伝ったりしています」と言う。

 勇とは23歳で出会ってから30年以上の付き合いになる。これだけ長く現場にいながら、監督をやりたいと思ったことは一度もないという。

「(勇)監督やフミさんの野球を見ていたら、自分とはレベルが違うんです。こんな仕事、とてもできねえなと。それだったら、私は2人の話を聞いて、それを生徒たちに伝える。そういう役割が合っている気がします」