
カレン・バラッドは、カリフォルニア大学サンタクルーズ校の名誉教授で、フェミニズム理論、哲学、意識の歴史などを教えている。素粒子物理学でPhDを取得したバラッドの研究領域は科学論、フェミニズム理論、ポスト構造主義哲学と幅広い。
バラッドは物理学者ニールス・ボーアの量子論解釈を存在論の観点から捉え直して、「エージェンシャル・リアリズム」という独自の認識論・存在論を生み出した。バラッドが上梓した『宇宙の途上で出会う 量子物理学からみる物質と意味のもつれ』(2023年、人文書院)には、どんなことが書かれているのか。社会学者の大澤真幸氏に聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト)
──これはどのような本ですか?
大澤真幸氏(以下、大澤):この本を書いたカレン・バラッドは、物理学者であると同時に哲学者です。日本ではいえば、「現代思想」といった分野にかなり精通されている方で、少し珍しいタイプだと思います。
この本は「エージェンシャル・リアリズム」について書かれています。日本語で言えば「エージェント的な実在論」になります。
「エージェント」とは能動的に動くものという含みをもっているのですが、原点には、量子力学で言うところの「観測」という行為があります。別の言い方をすると、「エージェント」という概念は、「観測」というところから出発しながら、普通の意味での「観測」ということから自由になろうとしています。
例えば、私の目の前に本があり、それは確かにそこに存在する。私が見ていなくても存在している。これが実在論です。
僕たちは、自分の目やその他の知覚で確認できるモノが知覚とは無関係に実在しているという前提で生きています。ただ、こうした考え方は「素朴実在論」と言われ、随分前から哲学者の間ではバカにされてきました。
では、哲学者はどう考えてきたかというと、対象は意識や思考の対象、意識や思考に相関してのみ存在している、と言う。言い換えれば、モノは「現象」というかたちでのみ存在しているということです。この「現象」は、本書では鍵となる概念です。
でも、これはいくら何でも都合が悪い考え方です。宇宙は、人間が出現する前からあるわけですから。そこで、実在論やマテリアリズム(唯物論)を何らかの形で復活させなければならないという潮流が、特に21世紀になってから出てきました。
ただ、その種の新しい実在論の哲学者はたいてい、実在の問題を自然科学から切り離して考えます。なぜかというと、哲学者から見ると、自然科学はいまだに素朴実在論にとどまっているように見えるからです。
──哲学者は素朴実在論を避けるのですね。
大澤:でも、バラッドは哲学者であると同時に物理学者です。物理学の基礎である量子力学と整合性のある実在論を作り、それをベースに考えようとしています。
既にさまざまな技術に応用されている量子力学ですが、その意味するところはいまだに謎です。この本は、量子力学の謎に果敢に挑戦しながら「エージェンシャル・リアリズム」という考え方を組み立て、人間の言語や意味にまで、その考え方を拡張しようとしているのです。
「新しい実在論」は、普通は人間に固有だと見られてきた能動性や主体性に類するものが、あらゆる事物に見いだすことができると考えることです。これは、現在の哲学界のトレンドになっていますが、こう考えてしまうと、自然科学の枠の外に出てしまう。
それに対して、バラッドは自然科学から切り離して考えるのではなく、自然科学の基礎にある量子力学と整合性をもたせるかたちで、実在論を立て直そうとしています。