目次

連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

江戸文学の主流を占めるほど、教養のある武士や町人に親しまれた狂歌、その第一人者・南畝は、どのようにして吉原の常連となっていったのか

世の中に 蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶというて 夜も寝られず

(世の中でお上ほど、うるさく鬱陶しいものはない、享楽を控え倹約に勤しみ、文武に励めと、それは野暮というものだ)との意が秘められている。

 この句を詠んだのが、大田南畝(おおたなんぽ)であるとの嫌疑がかけられ、幕府の処罰を恐れた彼はその後、筆を擱くことになる。

 南畝は寛延2年、下級武士である大田正智吉左衛門とその妻・利世の嫡男として、牛込仲御徒町(現在の東京都新宿区中町)に生まれた。

 禄高の低い下級の幕臣が、貧しい家庭環境から脱却する方法はただ一つ、学問を身につけ、学問吟味に合格し、役に就くことであった。

 幼少から学問に秀でて、言葉を自在に操る天賦の才に恵まれ、南畝は周りから神童と目されていた。

 教育熱心だった母・利世は6歳の南畝を、漢学者・多賀谷常安に入門させ漢文の素読を学ばせた。

 その俊秀ぶりに、南畝は多賀谷に自身の師で江戸六歌仙といわれた和歌の名手・内山賀邸に師事するよう勧められ、15歳のときに内山に入門。

 18歳の時、儒学者で漢詩人の松崎観海に師事、儒学者への道を目指した。

 戯作者・風来山人(ふうらいさんじん)として、文壇に名を馳せていた平賀源内が、南畝が書き留めていた狂詩を見て絶賛。

 源内の後押しもあり、漢詩と漢文が収められた狂詩狂文集『寐惚先生文集(ねぼけせんせいぶんしゅう)』を19歳で刊行。

 作品は南畝が自らを寝惚先生とし、「金ヲ詠ズ」「江戸見物」など、周りの事象を洒脱・滑稽に風刺。

 また、中国の詩文への造詣が深く、詩人「杜甫」の作、「貧交行」をオマージュして掲載している。

以下、杜甫作 「貧交行」

手を翻せば雲と作り 手を覆せば雨
紛紛たる軽薄 何ぞ数うるを須いん
君見ずや管鮑 貧時の交わり
此の道今人棄てて 土の如し

以下、大田南畝 作 「貧鈍行」

貧すれば鈍する 世を奈何
食うや食はずの吾が口過
君聞かずや 地獄の沙汰も金次第
挊(かせ)ぐに追い付く 貧乏多し

『寐惚先生文集』は、たちまち大評判となり、南畝は狂詩・狂詩作者としての道を歩むことになる。

 狂歌(きょうか)とは、日常の出来事を「俗語」で、社会風刺や皮肉、滑稽、洒脱を盛り込み、ユーモアを用いて詠まれた五・七・五・七・七の音で構成される短歌文学。

 和歌が雅(みやび)な情趣を「雅な言葉」で表現するのに対し、狂歌は俗な事象や情動を「俗な言葉」で表現する。

 戯作者・狂歌師の朱楽菅江との共編で200人以上が詠んだ狂歌を集め、『万載狂歌集』を編み刊行。

 これがきっかけとなり狂歌は大流行、江戸文学の主流を占めるほど、教養のある武士や町人に親しまれた。

 南畝は狂歌だけでなく、知的でナンセンスな笑いと、当時の現実世界を踏まえた写実性が特徴の「黄表紙」。

 粋(いき)を理想とし、野暮を笑いのめした「洒落本」をはじめとする戯作にも着手。随筆、漢詩文、狂詩、なども多く残している。