連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

絶世の美人だった高尾太夫は、茶の湯や和歌など芸事にも秀でて、才色兼備なだけでなく、情も厚かったため人気を博した(歌川豊斎画 「高尾太夫 沢村源之助」出典:演劇博物館)

 江戸には「日に千両がおちる」といわれた場所がある。以下の3か所である。
           
①  日本橋河岸の魚河岸(現在の日本橋本町1丁目、日本橋室町1丁目)
②  日本橋堺町・葺屋町の芝居町(現在の日本橋人形町3丁目2~7番地域)
③  浅草寺裏の日本堤の吉原(現在の台東区千束)

 幕末に人形町の品川屋久助が記した滑稽本『江戸自慢』の一葉に、「新吉原日用総まくり」という項目がある。

 それによれば遊女の数は3600余人。誘客の数は、1日に1万人ほど。

 情事に要する紙代だけでも、十二文として九百四十八貫五百文。四貫文が一両であるから、換算すると、二百三十七両もかかるとある。

 滑稽なことに射精した精子の量の総数として、その排出量は十九石ほど。四斗樽に入れるとするならば、四十八樽に及び、と綴られている。

 江戸の売春稼業の女性約1万7000人が14万人の男の性欲を処理していたと推計されるが、現在の状況はどうだろうか。

 日本全体の風俗嬢は30万人とされ、その数十倍の男性の性欲を鎮めているといわれる。

 2024年11月発表の2024年6月時点の総務省統計局のデータによれば、日本全国の20代女性の人口は、620万人。

 仮に、風俗嬢のボリュームゾーンである20代女性の総数を母数としたならば、約20人に1人の女性が風俗関係の仕事に携わっているということなのか。

お職女郎とは何か

 吉原の妓楼には大規模店舗の大見世、中規模の中見世、小規模の小見世の3種類があった。

 大見世は格が高く、遊女の値段も高価な高級店で、大見世で遊ぶには引手茶屋を通す必要があった。

 引手茶屋とは現在の案内所・紹介所のようなもので、喫茶店を装ったものもあり、店や女性が決まっていない遊客に風俗店を紹介したり、女性が決まったら目的の店に送迎したり案内をする。

 遊里の娼家で妓が店頭に並び出ることを、女郎が「見世を張る」ということから「張見世」いった。

 引手茶屋を通さない場合には中見世以下に行って、「張見世」をしている遊女から選ぶことになる。

 これに対し、女郎が奧にいて直接店先からは見えない形態を「蔭見世」という。

 娼家では売っ妓が「上妓」とされ、「太夫」は遊女のランクである妓品の最上位者の名である。

 それは遊芸、才色ともに優れた一流の遊女で、張見世などには出ず、まわりの女郎と待遇も異なっていた。

 娼家では奨励を兼ねて、遊女たちの毎月の売上高を表示し、娼婦たちに、その順位を競うよう仕向けている。

 遊里語で「お職を張る」といえば、その妓楼での最上妓を続けること、「お職女郎」の順位を保ち通すことである。現代でいうと売り上げナンバーワン・ホステスといったところだろう。

 近世の遊郭では「玉お職」「台お職」などの地位が設けられた。

 吉原の遊女の枕席料金は「売り玉」。「揚代」、あるいは「枕金」という。

「玉お職」は、客数にかかわらず良い客がついて売り玉代の上がりが多い遊女である。

 一方、「台お職」は、枕金の売り上げだけでなく、飲食代をも多く支払った客がついた遊女で、結果的に妓楼に多くの利益をもたらしたことで、これを「台(飲食物)お職」と称した。