高尾という大名跡
吉原には、大名や身分の高い武士、成功した商人たちなどが足繁く通った、「三浦屋」など格式の高い妓楼があった。
そうした超高級妓楼に身を置く遊女らは、床の中でも相手を楽しませる秘戯技巧と真情だけでなく、茶の湯、書道、短歌に囲碁や将棋といった教養や箏、三味線などの芸事を身に付けていた。
そうした上妓にあっては、たとえ大名であっても、さまざまな手練手管によって、虜にさせると大金をつぎ込ませた。
「高尾太夫(たかおだゆう)」とはもっと位の高い、三浦屋で代々名乗る大名跡で、京の「吉野太夫」、京の島原および大坂の新町にいた「夕霧太夫」と共に三名妓(寛永三名妓)と呼ばれ、それぞれ、その名にふさわしい女性が襲名した。
高尾太夫は、吉原の太夫の筆頭ともいえ、三浦屋にとどまらず吉原遊廓全体の「お職」を張った遊女である。
高尾とは京都の紅葉の名所、「高雄」がその由来で「高尾」と称し、紅葉の紋がトレードマークだ。
井原西鶴の『好色一代男』では、高尾一行が揚屋から帰る様子を、「禿も対の着物二人引きつれ、やり手、六尺までも御紋の紅葉、色好みの山々さらに動くがごとし」と描かれている。
遊女評判記などの細見では、紅葉の着物の挿絵でそれが高尾だと判別された。
江戸の遊郭吉原の歴史・人物談などを綴った江戸中期の随筆『洞房語園』では、三浦屋の高尾は7代あり。初代を「妙心高尾」、2代目を「仙台高尾」、3代目を「西条高尾」、4代目を「水谷高尾」、5代目を「浅野高尾」、6代目を「駄染(だぞめ)高尾」、7代目を「榊原高尾」としている。
「仙台高尾」「西条高尾」「水谷高尾」「浅野高尾」「榊原高尾」などの別名は、身請け先がその名の由来である。
中でも「仙台高尾」が一番、名が残っており、大名や大富豪でなければ相手にしなかった最上級の太夫だった。
太夫の虜となった仙台侯
『名誉長者鑑』(明治十年 栄泉社刊)では「仙台高尾」についてこう綴られている。
「數代(すだい)の中勝(ちうすぐ)れて名妓(めいぎ)の聞(きこ)え高し是を万治高尾(まんじたかお)といふ」
「一説に仙臺高尾(せんだいたかお)ともいふ、貞享中恵土鹿の子の説を用ひて二代と定む」
「仙台高尾」の幼名は「あき」といい、現在の栃木県那須塩原出身で、あきの実家は貧しい農家。父の長助はほとんど働かない人であった。
あきは塩原の温泉街付近にあった古塩原湖(塩原化石湖)に堆積した地層(塩原湖成層)の中にある「木の葉の化石」を湯治場の客に売って家計の足しにしていた。
ある時、温泉宿・明賀屋に投宿していた吉原の三浦屋の主人・四郎左衛門が、化石を売りに来たあきの器量や、甲斐甲斐しく働く、そのいたいけな姿を見初め、養女として引き取った。
万治元年(1658年)頃、あきは、いきなり三浦屋の太夫・高尾としてお披露目となる。
絶世の美人だった彼女は、茶の湯や和歌など芸事にも秀でて、才色兼備なだけでなく、情も厚かったため、瞬く間に人気を博し、高尾太夫は吉原で評判となった。
「仙台高尾」の名前の由来は、陸奥仙台藩3代藩主・伊達綱宗(だてつなむね)によって身請けされたことによる。
身請けとは、妓楼に女性が抱える借金を清算し、身柄を請けることである。
遊女が身請けする相手に好意があれば問題はない。だが、高尾は心を許せる相手以外には身を売らず、大名や豪商でも気に入らなければ袖にしていた。
「仙台高尾」は、とびきり魅惑的な容貌だけでなく、文章も達者だった。身請け前、彼女は伊達綱宗への想いをこう綴っている。
「夕しは浪のうへの 御帰らせ いよいよ 御やかたの 御首尾 つゝかなく おはしまし候や 御けんのまし忘れねは こそ 思ひ出さす候」
(夕方まで吉原でご一緒した想い人は船での帰り途、夕日も波の上にきらめくなかで、御館“おやかた:仙台侯”は何をお思いかしら。私は、昨晩のあなたを、のべつ想っております)
「君は今駒形あたり時鳥(ほととぎす)」侯
(愛しきあなたは、いま駒形あたりにいらっしゃるのかしら)
と詠んで仙台侯に贈った。
駒形とあるのは、隅田川河畔吾妻橋付近で、吉原へ通う客はそこから船に乗ったことによる。