階級社会の遊女、その序列
吉原の遊女は官許の妓とし、江戸においては、そのほかの場所での売春行為は一切認められないことになった。
貴人や上流の客も、それまでのように売色を楽しむには、遊廓の中に足を踏み入れなければならなくなったが、直接娼家に行くことを憚る者は揚屋を利用した。
揚屋は妓楼との連絡係でもあり、太夫との交渉は直接、遊女屋でするのではなく、揚屋で行なわれた。
それは、いまでいう情報喫茶、現在の吉原では吉原案内所といわれるものの起源である。
下等の遊女を買うときは娼家に直接行くため、揚屋に行く必要がなかった。
しかし、上妓などの上流の遊女と遊ぶときは揚屋に行く必要があった。
新吉原が開設されると、各地にあった揚屋を1か所に集め新たな揚屋町がつくられた。
上妓とは、妓楼で最も売れっ妓である遊女で、妓楼にある名を揚げた名札の最初に並ぶ、上位の妓のことで、「上職」「お職」とも称された。
「花魁」は、吉原遊廓の遊女で位の高い者を指す。
一方、「太夫」は芸事で客をもてなす芸妓(げいぎ)の最高位の呼称である。
『吉原細見』によれば、吉原には万治元年(1658)の時点で太夫が3人いたとある。
吉原を訪れる客には情緒や風流を重んじる豪商などもおり、花魁には高い教養が求められた。
妓楼は遊女の付加価値を高めるために、客への一流の扱いができるよう、幼少の頃からも15歳くらいまでに、古典や書道、茶道、華道、和歌、舞踊、箏、三味線、囲碁、将棋などの教養、芸事を徹底的に仕込まれた。
女性の識字率が低かったこの時代、吉原で読み書きができた遊女の比率は、ほぼ100%だったという。
また、花魁には側に身の回りのお世話をする7~8歳くらいの童女・禿(かぶろ)や遊女見習いとして水揚げの済まない13~14歳くらいの新造という名の花魁候補の少女を従えていたため、自分の座敷を維持するために多額の費用を要した。
その花魁と床入りするには最低3回は足を運び、宴席などを設ける必要があった。
最初は「初会」といって、口を利くだけ。
遊女に忘れられないように時を置かず再訪する。これを「裏を返す」といい、この時、遊女と付き添いに揚げ代と同額の祝儀を渡し、飲食をしながら話をする。
しかし、カネは払えど、まだ同衾できない。
セックスができないからと、ここで祝儀をケチると野暮と揶揄される。
揚げ代とは遊女の値段を指し、置屋の格式や遊女の位が高ければ高いほど、揚げ代も高くなる。
3度目に再々訪することで、ようやく「馴染」となり、遊女の部屋へと入ることができる。
この時、案内人の遣り手にも揚げ代と同額の祝儀を渡し、遊女には花代の祝儀を渡すことで、ようやく「床入り」し合体できるそうな。
花魁を揚げる客は、そうした経費をすべて含めると、現在の貨幣価値で500万円といった莫大な資金がかかる。そのため、花魁は一般庶民には手の届かない高嶺の花だった。
だが、「地獄の沙汰もカネ次第」、遊女や付き人、妓楼に揚屋に祝儀を振る舞うなど、大金を撒いて散財すれば、「初会」でもセックスが可能だったとの話もある。
「遊女は三会目で肌を許す」という慣例は、時代が下るにつれて形骸化したといわれる。