吉原と外場所
吉原遊廓が公許されると、街中に散在していた遊女屋が集められ、吉原の中で、かつて営業していた場所ごとに町名で区分した。
「柳町」の遊女たちが移転した江戸町。「鎌倉河岸」の遊女たちが移転した江戸町二丁目と本柳町。
「麹町」の遊女たちが移転した京町。京橋角町の遊女たちが移転した角町。「大坂、奈良」の遊女たちが移転した新町、などと呼ばれた。
幕府は吉原以外での売色は認められないと「御触れ」を発布したものの、江戸の市中には「湯女」や「水茶屋女」「踊り子」や「町芸者」の類いが、いずれも密かに売色をこととしていた。
これらは私娼であり、私娼はいわゆる公娼に対する隠売婦である。
市中の諸所に集団的私娼の遊里ができて、世人はこれを「岡場所遊里」と称した。
岡場所とは非公認の私娼屋が集まった遊郭のことである。
「岡」は「傍目」(おかめ)などと同じく、「脇」、「外」を表す言葉で外場所(ほかばしょ)のことで吉原に対する局外の意である。
最盛期だった安永4年(1775)には江戸市中の岡場所は64か所あった。
吉原は格式も高く、玉代が高いほかに、いろいろなしきたりなどがあったが、岡場所は代金も安く、気軽に遊べる場所として大いに繁盛した。
江戸の発展とともに徐々に開発が進み人口が増えていくと、吉原周辺にも人家が立ち並ぶようになり、大名の江戸屋敷も吉原に隣接するようになっていた。
そのような中、風紀の乱れと治安の悪化を嫌った幕府は明暦二年(1656)に吉原を日本堤に移転させることを命じる。
吉原の移転が決まった翌年の正月、江戸のほとんどを焼き尽くした明暦の大火が起き、吉原も全焼する。
この大火で遊女も楼主も焼け出され、娼家はすべて日本堤に移転した。
移転前の場所を元吉原、移転後の場所は新吉原と呼ばれた。