井上馨 写真/近現代PL/アフロ

(町田 明広:歴史学者)

渋沢と長州藩の領袖・伊藤と井上との腐れ縁

 明治時代に入ってからの渋沢栄一は、静岡藩に仕え、その後明治政府で官の道を歩んだものの、実業界に移った以降は再び官には戻らず、政治家になることもなかった。しかし、渋沢のネットワークは尋常なものではなく、同時代の政治家とは広く交友関係を維持していた。その中でも、渋沢が高く評価した政治家として、伊藤博文、井上馨、原敬らの名前を挙げることができる。

 伊藤博文とは、渋沢が新政府に出仕して以来の関係で、同じく農民出身ということも相まって、非常に親しい間柄であった。新国家を軌道に乗せるべく、様々な近代制度の創設や整備から始まり、数多くの問題で渋沢と伊藤は協力関係にあった。

伊藤博文

 明治42年(1909)2月、実業団を率いて渡米中の渋沢に、安重根に暗殺されたという伊藤の計報が届いた。渋沢と伊藤は40年来の友人関係であり、めまぐるしく変化する国際社会の中で、日本の立ち位置を客観的に判断し、自立した先進国家として導くことのできる数少ないリーダーとして伊藤を大いに尊敬していた渋沢は、目眩がするほどの衝撃を受けたのだ。

 さて、井上馨である。天保6年(1835)11月、長州藩に生まれた上級藩士であり、渋沢より5歳年上であった。文久3年(1863)に伊藤らと長州ファイブとして、イギリスに密航留学した経験を持つ。維新後は新政府の大蔵大輔となるが、一旦実業界に移り、先収会社(後の三井物産)を設立した。

長州ファイブ。上段左から遠藤謹助、野村弥吉、伊藤俊輔(博文)、下段左から井上聞多(馨)、山尾庸三。

 また、明治12年(1879)に外務卿、同18年(1885)に第1次伊藤内閣の日本で最初の外務大臣となり、不平等条約の改正のために、鹿鳴館を中心とした欧化政策を進めるが失敗した。後に農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣などを経て元老になった。大正4年(1915)9月1日死去したが、81歳の波乱の生涯であった。侯爵を授与された近代日本の大政治家であるが、残した実績の割には、その評価は必ずしも高くない。

 渋沢と井上は、大蔵省時代にともに財政の健全化を図るため尽力した良きパートナーであった。しかし、渋沢らは内務卿の大久保利通と対立するようになり、井上とともに大蔵省を辞することになった。それ以降も、目指す方向性が違っても、渋沢と井上は腐れ縁とも言えるような関係を維持した。ところで、井上が首相に推された時、渋沢は大蔵大臣として入閣し協力するように求められたが固辞し、井上内閣が成立できなかったことがある。近代史における知られざる、この重要なエピソードを紐解いていこう。