徳川慶喜 写真/akg-images/アフロ

(町田 明広:歴史学者)

幕末維新人物伝2022(4)「島津久光と幕末政治①」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69652
幕末維新人物伝2022(5)「島津久光と幕末政治②」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-69653

禁門の変と久光の方向転換

 文久期(1861~64)は、まさに幕末動乱が最高潮の時期であり、薩摩藩・島津久光も中心的な存在として、その渦中にあった。薩摩藩は幕府勢力とともに、破約攘夷を標榜する長州藩と対峙し、文久3年(1863)の八月十八日政変によって、長州藩を京都から追放することに成功した。

 元治元年(1864)7月19日に禁門の変が勃発すると、薩摩藩は官軍の主力となって長州藩と戦闘し、遂に朝敵となった長州藩を潰走させた。長州藩は久坂玄瑞を始めとする精鋭を数多く失い、その勢力は中央政局から駆逐されたのだ。禁門の変の直後から、小松帯刀・西郷隆盛は長州征伐を断固強行すべきことを訴え、厳罰論を主張した。幕府がそれに応え、迅速に征討軍を起こしていれば、その後の歴史は大きく違っていたことは間違いない。しかし、幕府は動かなかった。

「禁門の変」の舞台となった京都御所の蛤御門。

 朝政参与体制の崩壊後、鹿児島に戻っていた久光は、禁門の変後に有力藩士の提案に乗る形で、抗幕的な政治姿勢に転換した。藩地に割拠して、貿易の振興や軍事改革・武備充実による富国強兵を目指し、幕府から距離を置いて将来の戦闘に備えるという「抗幕」志向である。薩摩藩にとっては、幕府と目に見える形で対峙することになる大転換に他ならない。一方で、久光は武力を伴わない外交権の幕府から朝廷への移行による事実上の幕府打倒、つまり幕府を廃する「廃幕」を企図していた。

 慶応期の薩摩藩の動向において、これらの政略を無視することはできない。前者は武力による倒幕路線に、後者は大政奉還による廃幕路線に連動することになる。いずれにしろ、禁闕守衛を最優先としてきた薩摩藩が、長州征伐を機に中央政局から撤退し、薩摩藩自体の富国強兵を企図して割拠する強い志向を打ち出したのだ。

 強硬論だった西郷も久光の方針に従い、長州藩への寛典論に舵を切った。西郷は征長総督・徳川慶勝に取り入り、参謀格として第一次長州征伐に従軍した。西郷は長州藩に3家老・4参謀を死罪とすることを勧説して実現させたため、総攻撃は中止となった。さらに、西郷は藩主父子の謹慎と山口城の破却を履行させ、三条実美ら五卿の九州移転を認めさせたことにより、12月27日に官軍は撤兵を開始した。

 第一次長州征伐では、全く戦闘が行われず、長州藩は存亡の危機を脱することが叶った。これはすべて、西郷の尽力によるところであった。既にこの段階で、薩摩藩は長州藩に秋波を送り始めており、薩長融和は薩摩藩から持ち出した高次元の国家戦略であったのだ。