慶喜による幕薩融和路線の推進
満を持して将軍に就いた徳川慶喜は、政局運営を安定させるために方針転換を図り、有力諸侯との連携を模索し始めた。特に、薩摩藩の取り込みは極めて重要であった。慶喜の股肱の臣である原市之進は、久光の名代的存在である小松帯刀に接近し、幕薩融和に意を用いた。そこに、突然の不幸が慶喜を襲う。最大の庇護者である孝明天皇が、天然痘で12月25日に崩御されたのだ。

慶喜は、諸侯との連携をますます意識せざるを得ず、より一層、原らの側近を小松の許に派遣して、明治天皇の践祚を機に行われた大赦や五卿の帰洛などについて、話し合いが持たれるようになった。こうした幕府側からのアプローチによって、慶喜が西国雄藩と連携をして、政局運営を図るのではないかとの希望を薩摩藩に抱かせた。その結果、小松らも方針を変えて、当面は朝廷工作を控えて直接幕府と交渉することを決めたのだ。
折しも、長州問題に加え、兵庫開港問題が切迫していたため、小松らはこの機会を逃さず、諸侯会議を至急開催して外交権を幕府から朝廷に移管し、なんとか廃幕に持ち込もうと考えた。そこで、久光を始め松平春嶽・山内容堂・伊達宗城を上京させることに決し、慶応3年(1867)2月1日、西郷は帰藩して久光に上京を促し、賛同を得た。久光は700人の藩兵を率いて鹿児島を出発し、4月12日に入京した。久光にとって、3年振りの上京であった。いわゆる、四侯会議の開催である。
なお、幕薩関係は小松・原を軸に蜜月関係を迎えていたが、慶喜が約束を反故にし、諸侯が上洛する前に外交問題、すなわち兵庫開港の勅許を朝廷に奏請した。そのため、薩摩藩は慶喜への信頼を急速に失っており、そのようなタイミングでの四侯会議は、前途多難な様相を始める前から呈していたのだ。
次回は今回の連載の最後となるが、四侯会議から討幕、明治維新後に至る久光の動向を見ていきたい。