(町田 明広:歴史学者)
「久光四天王」とは?
幕末文久期(1861~64)の薩摩藩を牛耳っていたのは、島津斉彬の後継藩主・忠義の実父である島津久光であった。その久光を補佐し、国事周旋の活動に尽力していたのは小松帯刀・中山中左衛門・堀次郎(伊地知貞馨)・大久保利通の4名であった。筆者を始め、歴史家の中には、この4人を「久光四天王」と呼称している者もいる。
しかし、必ずしも4人全員が誰でも知っている人物とは言い難い。大久保利通は別格として、このところ小松帯刀には多くの新しい史実の発掘が相次いでいる。そして、幕末薩摩藩にはなくてはならぬ存在として、クローズアップされてきている。しかし、中山中左衛門や堀次郎は相変わらず、知る人ぞ知る人物に止まっている。
今回は、安政期(1854~1860)を含め、文久期に諸藩や尊王志士の間を縦横に周旋し、まさに外交家として活躍した堀次郎(1826~87)を2回にわたって紹介したい。
久光四天王の外交家・堀次郎の誕生
堀次郎は文政9年(1826)生まれで、当初は仲左衛門と称したが、本稿では主として扱う文久期の次郎で通したい。第10代藩主の島津斉興の中小姓となった堀は、斉興に従って江戸に出て、昌平坂学問所で学んだ。その後、広く尊王志士と交わるようになり、同郷の有村雄介・次左衛門の兄弟らとともに、国事に奔走し始めた。
堀は有村兄弟とともに大老井伊直弼の暗殺計画に加わったものの、帰国の藩命を受けたために、桜田門外の変には参加が叶わなかった。この通り、堀は安政期から筋金入りの志士活動をしていたのだ。
久光四天王としての堀の活躍は、文久元年(1861)10月7日、藩政に関わる藩主父子の側近である小納戸役に抜擢され、即日に江戸行き(11日出発)を命じられたことを起点とする。主として、中堅以下の武士層からなる誠忠組に最初から参加し、頭角を現していたことから、島津久光の目に留まったのだ。