(歴史家:乃至政彦)
史料の原本発見
令和6年(2024)12月19日、滋賀県立琵琶湖文化館は、明智光秀寄進状の原本が、聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)で発見されたと公表した(参考リンク 滋賀県~所在不明古文書の再発見~ 明智光秀の寄進状が、ゆかりの寺にあった!)
【釈文】
当寺仏供料
七拾八石九斗弍合
令寄進者也 仍
如件
天正五 明智
九月廿七日 光秀〈花押〉
来迎寺
日付は天正5年(1577)9月27日で、署名は「明智光秀」となっている。
内容は、滋賀県の聖衆来迎寺に「仏の供養のため、これだけのお米(が取れる土地?)を寄進いたします」と書き記したものである。
米の量は78石9斗2合で、成人男性78人が1年間食べられる量になる。光秀はなかなかの太っ腹だ。
この古文書は明治時代に、東京大学史料編纂場が原文を確認して『大日本史料』の原稿に書き写したが、そのあと原本の所在が不明となってしまっていた。
それが「再発見」されたわけで、まことにめでたい話である。
ただ、この寄進状には少しだけ疑わしいところがある。
すでに光秀に詳しい福島克彦氏(大山崎町歴史資料館館長)が指摘していることだが、当時の光秀が「明智」ではなく「惟任」を名乗っていたことに触れ、署名部分を「後世に追記したものか」と判断を保留にする姿勢を示している。
私もこの「明智光秀」の署名に違和感を覚える。
ほかの武将に例えるなら、晩年の徳川家康が「松平家康(家康はもと「松平」)」、上杉謙信が「長尾謙信(謙信はもと「長尾」)」と称するようなあり得なさを感じるからである。
そこで今回は光秀の名乗りに焦点をあてて、この問題を検討してみよう。