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ウクライナNATO加盟問題では、プーチン氏への配慮を見せたメルケル氏(2020年1月撮影、写真:ロイター/アフロ)ウクライナNATO加盟問題では、プーチン氏への配慮を見せたメルケル氏(2020年1月撮影、写真:ロイター/アフロ)

(文:熊谷徹)

11月26日、ドイツのアンゲラ・メルケル前首相が「自由(Freiheit)」と題した回顧録を公表した。同氏がウクライナの北大西洋条約機構(NATO)加盟に反対する理由など、貴重な証言も含まれている。だがドイツの論壇では「自己批判が少なく、過去の決定を正当化しようとする態度が目立つ」という声も聞かれる。

CDUの異端児がドイツ初の女性首相に

 736ページの回顧録に刻まれたメルケル氏の道程は、波乱に満ちている。1954年にハンブルクで生まれたが、牧師だった父親が家族とともに社会主義国・ドイツ民主共和国(東ドイツ)に移住したため、メルケル氏は東ドイツで教育を受けた。東ドイツでは物理学者として、物理化学中央研究所で勤務した。

 メルケル氏は1989年のベルリンの壁崩壊後、東ドイツの民主化を目指す新政党「民主主義の出発」に加わり政界に飛び込んだ。その後1990年に西ドイツの政権党だったキリスト教民主同盟(CDU)に入党する。メルケル氏は統一を実現したヘルムート・コール首相(当時)の目にとまり、連邦政府の婦人青年大臣に抜擢される。コール氏は「西ドイツ主導の統一」という印象を薄めるために、旧東ドイツ人を閣僚に加えたのだ。一種の頭数(あたまかず)合わせである。

 メルケル氏は、CDUの保守本流に属する政治家たちから「コールのお嬢ちゃん(Kohls Mädchen)」とか「社会主義圏から来たウズラ(Zonenwachtel)」と揶揄された。その異端児が、CDUのベテラン政治家たちを押しのけて、幹事長、党首、首相の座に就いたのだ。ドイツ政治史の中で極めて稀なケースだ。

 皮肉なことに、メルケル氏の急激な上昇の起爆剤となったのは、同氏の恩人コール元首相の政治スキャンダルだった。

様々な危機に直面したメルケル氏がどのような判断をしたか

 CDUは1998年の連邦議会選挙で敗北し、野党になっていた。メルケル氏は1998年にCDU幹事長に就任したが、その翌年コール元首相が現役時代に、闇献金を受け取っていたことが発覚し検察庁が捜査を始めた。コール氏だけでなく、CDUの一部の幹部も闇献金の授受に関わっていた。メルケル氏は、闇献金問題の徹底的な解明と党の金権体質の改善を要求し、自分を引き上げてくれたコール氏と訣別した。

 メルケル氏の路線はCDU内で支持され、同氏は2000年にCDU党首に選ばれた。2002年にメルケル氏は、当時連邦議会の院内総務だったフリードリヒ・メルツ氏(現CDU党首)を更迭し、自分が就任した。その後メルツ氏は一時政界を去り、米国の投資銀行に就職。この経験のため、メルツ氏は今もメルケル氏を嫌っている。

2000年、CDU党首となったメルケル氏(写真:ロイター/アフロ)2000年、CDU党首となったメルケル氏(写真:ロイター/アフロ)

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