光秀改名の経緯

 光秀が明智から惟任に改名した経緯から見ていきたい。

 光秀は、もともと将軍・足利義昭の「足軽衆」出身で、幕府の一構成員であった(それ以前の経歴は未詳)。

 当初の名乗りは「明智十兵衛尉光秀」であったが、将軍が信長と対立すると、主君を義昭から信長に切り替えた。光秀の活躍もあって義昭は信長に敗北して、京都を追放されることになった。このため、信長は天下人も同然の立場になった。

 天正3年(1575)7月、信長は、一部重臣たちの名乗りを改めさせた。ここで、光秀も「維任(後で「惟任」に変更)」の苗字と「日向守」の官名を与えられ、以後は死ぬまでこちらの新しい名乗りを使い続けた。これ以降、光秀は死ぬまで「明智」の二文字を使っていない。

 なお、光秀改名の2年前、もと幕臣・細川藤孝が自発的に「長岡藤孝」へと改名している。将軍の天下ではなく、信長の天下になったことから遠慮してのことだろう。

 すると、光秀が2度と「明智」を使わなかった気持ちも理解できる。信長に警戒されることを恐れたのである。