光秀の真意は、離反防止対策か?
次に②の【光秀は下の名前しか書かなかった可能性】を考えてみよう。
実は、信長と光秀が亡くなった翌年の天正11年3月、織田家臣・惟住(これずみ)長秀が、この聖衆来迎寺に「前々からの比叡辻の78石9斗の所領を認めます」という内容の安堵状を発している(来迎寺文書)。
七拾八石九斗者、坂本比叡辻分内、
右如先々、令寄進候様之条、無相違、全可有寺納者也、仍如件、
五郎左衛門尉
天正拾一年三月二日 長秀〈花押〉
来迎寺参
惟住長秀が安堵した「78石9斗」は、光秀が寄進した「78石9斗2合」とほぼ一致する。すると光秀の寄進状は、「寺領寄進状」と見ていいだろう。米そのものではなく、それだけの米が取れる寺領を寄進したのだ。
光秀の真意はこういうものだろう。もし謙信がこのまま畿内に接近してきた時、聖衆来迎寺が上杉軍に味方するかもしれない。光秀はこれを防ごうとして、比叡辻の所領を寄進したのではなかろうか?
惟住長秀の安堵状を見返してみよう。ここには、苗字が付されていない。
すると、光秀の寄進状も初めは苗字が書かれていなかったのではないかと思う。