幕末の悲劇の一つに、会津藩・松平容保が挙げられることが多い。最後の最後まで幕府に忠義を尽くし、挙句の果てには新政府軍と対決して、一藩存亡の危機に瀕する大敗北を喫する。まさに、悲劇中の悲劇と言っても過言ではなかろう。 今回は、その運命を決定づけた会津藩主の松平容保(1835~93)の京都守護職時代、その中でも長州藩との関係が抜き差しならなくなった元治期(1864~65)に焦点をあててみたい。そして、3回の連載によって、悲劇の芽がどのように派生したのか、その真実に迫っていこう。 最初に、会津藩の歴史を簡単に振り返っておこう。戦国時代の会津地方は、黒川(会津若松)を本拠とする芦名氏の支配下にあった。