1858年7月29日日米修好通商条約 World Imaging, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

(町田 明広:歴史学者)

幕末維新史探訪2023(1)幕末維新史の分かり難さとは①https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/73357

鎖国と開国を定義する

 幕末維新史は、「尊王攘夷」vs.「公武合体」の抗争で捉えることはナンセンスであることを前回ご説明した。それでは、この激動期に何をもって政争が繰り広げられていたのであろうか。結論から先に言えば、キーワードは「攘夷」である。具体的には、攘夷をどのように、そして、いつ実行するかについて、意見が鋭く対立し、それが政治的抗争を生んだのだ。

 攘夷問題を紐解く前に、江戸時代の国体であった鎖国について、また、開国とは鎖国がどのように変質した状態を指すのか、説明しておきたい。

 鎖国とは、日本人の海外渡航・帰国を厳禁し、外国船を追い払うことを骨子としており、キリスト教を徹底的に排除することである。最も重要なのは、「外国船を追い払うこと」であり、イコール外国人を我が国の領土に入れさせないことである。とは言え、幕府は長崎で事実上の貿易を行っていた。しかし、幕府によって独占された限定的な管理貿易に過ぎなかったが。

 開国とは、通商(貿易)を始めることである。通商を始めると国の形、つまり国体が変化することになる。外国船が合法的に開港場に入り、当然のことながら外国人が上陸し、そこに商業行為の名の下に、居住を始める。つまり、撫恤(ぶじゅつ)政策でも認めなかった外国人の国内への侵入を許すことになる。

 しかも、国際社会への参画を伴い、欧米列強によって我が国が産業革命後の世界再編体系への編入を強制されることになる。また、帝国主義的なアジア侵略の最前線にさらされ、日本は常に植民地化の危機に瀕する可能性があった。

 つまり、和親条約の段階では鎖国、通商条約の段階に至って初めて開国となる。よって、日米和親条約では鎖国段階に止まり、日米修好通商条約のよって開国になったのだ。